『科学を語るとはどういうことか』を読んだ

東大の物理学教授である須藤(すとう)靖先生と、京大の科学哲学者、伊勢田哲治先生との対談。表紙がそもそも強烈なんだが、中身も強烈。というか、中身の強烈さに合わせてこの表紙なんだろうな・・・。

 

 

副題が『科学者、哲学者にモノ申す』となっていることから、なんとなく、「なごやかな対談」というよりバトル要素が入っている本なのかなという想像はつくのだが、読んでみたら思った以上の真剣バトルでびっくりした。しかも最終的に収束ついてない・・・。

 

そもそも本書の成り立ちは、須藤先生が最初に科学哲学の本を読んで「そこで語られている決定論・因果論という考え方の解釈に強い違和感を持った」「全く的外れでナンセンスな議論であるとしか思えなかった」(いずれもp7)という意見を抱いたところから始まる。そして「インターネット上の書き込みから、東大駒場キャンパスで科学哲学についてかなりひどいことを言っている物理学者がいるという話」(p297)を伊勢田先生が聞きつけ、河出書房新社の本の企画としてこの対談が行われた、と。

 

この須藤先生がとにかくエネルギッシュで、最初からほぼ最後まで、科学哲学は「くだらない」「役に立たない」と怒っている。確かに私も、科学哲学とか哲学の入門書を読んでいて、そこで述べられている議論に「哲学者ってそんなことまで考えるんだ・・・」と驚かされたことは何度もある(例えばデカルトが「1+1が2というのは実は正しくなくて悪魔によってそう思い込まされているだけなのかもしれない」と疑った話とか)。だから須藤先生の最初の衝撃もある程度はわかる。

 

でも私の場合、これまでに哲学の入門書を何冊か読んできて、普通の人が「そんなところまで」とびっくりするくらいにとことん考えつめてしまうのが「哲学者」なのだろうなと理解したし、そして「科学」と名前は付いているものの、科学哲学は人文系の学問分野で、科学とは方法論が異なるのも当たり前だし、なにより科学哲学は科学を外から見て科学とはなにかを考えるもので、疑問を持つ視点が科学者と全く異なるのは当たり前、という認識に達していた。だから、この本の冒頭で、須藤先生は科学哲学に対してたいそうお怒りのようだけれど、伊勢田先生との対談の中でこの怒りもすぐに収まるのだろう・・・と思って読み進めたのだが、これが大間違いだった。

 

この対談中、須藤先生は「科学哲学は科学の分野内にあって科学をサポートする役割を果たす学問である」と勘違いしたまま、徹頭徹尾その考えをあらためてくれない。一方の須藤先生に対する伊勢田先生は冷静そのもので、何度も、科学哲学は科学をサポートする学問ではないこと、科学の外から科学を考えるのが科学哲学であることを説明し、科学と科学哲学との関係は鳥と鳥類学者の関係によくたとえられると繰り返す。しかし須藤先生はその説明に一旦納得したかのように見えて、話し始めるとまた「科学哲学は役に立たない」という持論に戻って行ってしまうのだ。不毛。

 

須藤先生も、決して科学哲学を全く学ばないまま印象だけで暴言をはいているわけではなくて、私が読んだような入門書、そしてそれ以外のものもかなり読んでらっしゃるようだし、なにより対談を読んでいる限り(あとからかなり手は加わっているらしいが)、伊勢田先生の話に対してすぐに自分の理解をもとに話を展開させるところ(その解釈が合っているいないは別として)なんか、すごく頭のいい人だなと思うわけだ。それなのに、どうして「科学の外からものを見る」ということがわからないんだろう。科学哲学は、須藤先生の役には立っていないかもしれないけれど、なぜそれが自分の知らない、自分が所属している世界の外では役に立つかもしれないと考えないんだろう。「くだらない」と思うのはあくまで須藤先生の価値観での判断、好みの問題でしかないということがなぜわからないんだろう。

 

どんなに頭がよくてどんなにたくさん業績を出していても、「自分の世界」(須藤先生の場合は「科学」)という枠の中でしか物事を考えられず、自分の価値観に凝り固まってしまうのは、年齢のせいなのだろうかそれとも単に性格なのだろうか。もし歳のせいだとしたら、こうはなりたくないなと思ったし、また本書で須藤先生は「科学者vs科学哲学者」という図式を頻繁に提示されているけれど、その須藤先生が所属する「科学者」グループに私は入れてほしくないと強く思ってしまった。

 

一方の伊勢田先生はめちゃくちゃ大人で、須藤先生の暴言(それでも原稿にする時点でかなりマイルドになったらしいが・・・)にも動じず、科学哲学における議論、因果論、そして実在論について淡々と説明していく。でも「それはあなた(須藤先生)の価値観の問題」ってもっと早い段階で言っちゃっても良かったと思うよ、伊勢田先生・・・。

 

科学者と科学哲学者の対談という企画そのものはすごく面白いし、科学哲学について改めて学ぶところも多かったけれど、とにかく最初から最後まで須藤先生のわからんちんぶりにいらいらさせられた本であった。やれやれ。

『猿橋勝子という生き方』を読んだ

図書館でたまたま見かけて借りてみた。

 

猿橋勝子という生き方 (岩波科学ライブラリー)

猿橋勝子という生き方 (岩波科学ライブラリー)

 

 

不勉強なので、女性研究者に与えられる「猿橋賞」の存在で猿橋勝子先生のお名前は知っていたものの、実際に何の研究をなさっていたのかは全く存じ上げていなかった。またこの本の著者である米沢富美子先生のことも、最近亡くなられたというニュースを見るまで全く存じ上げなかった私。不勉強なので・・・。

 

まあよく言えば、先入観のない状態で本書を読んだわけですが、いやー読み終わる頃にはすっかり猿橋先生ファンになっていましたね。研究者としての真摯さ、誠実さはもちろんのこと、謙虚でありながら自分の研究には絶対の自信を持っていて、自身の哲学を曲げない強さがあるというか。

 

研究者としての猿橋先生の専門分野は「地球化学」ということになるらしい。帝国女子理学専門学校を卒業後、気象研究所の研究員として、オゾン層の研究や、海水中の放射性物質の濃度、炭酸濃度などを調べ、化学的な観点から地球の状態を明らかにした。

 

それらの研究成果の中でも、本書の核として紹介されているのが、海水中の放射性物質の分析に関わるエピソード。1954年、ビキニ湾沖でアメリカの水爆実験が行われ、爆心地から160 kmの距離にいた第五福竜丸船員が被爆した。そして、水爆実験によって水中に放出された放射性物質は、その後海流に乗って遠く離れた場所の海水や生物を汚染していった。当時アメリカは、自国で行われた海水中放射性濃度の分析結果から「核実験は安全である」「海水によって薄められるので放射能汚染は心配ない」と主張していたが、猿橋先生はそのアメリカの結果よりも10倍から50倍高い濃度の放射性物質が海中に存在するという、アメリカの主張に反対する結果を出した。当然、アメリカからは非難轟々。

 

その調査結果の違いについて決着をつけるため、猿橋先生は自分の分析装置を携えて単身サンディエゴのスクリップス海洋研究所に乗り込む。研究場所として与えられたのは掘っ立て小屋のような汚い研究室。完全アウェーの状態で、猿橋先生はそのハードワークと化学分析の圧倒的精度の高さにより、最終的にスクリップスの研究者たちを納得させる。分析競争の果てに、スクリップス海洋研究所で放射性物質の分析を担当しており、当時分析化学の権威であったフォルサム博士の高い評価を勝ち取るエピソードは、まさに研究者のサクセスストーリー。かっこいー。当時まだアメリカ旅行なんて全然一般的ではなかったはずだし、そうでなくても単身敵陣に乗り込んで一戦交えるなんて、そして米沢先生はそうは書いてらっしゃらないけれどこれって多分「日の丸を背負っている」状態だったはずで、かなりのプレッシャーだったことは想像に難くない。それを猿橋先生はご自分の著書で「スリルがあった」という言葉で表現なさっていたらしく、自分の研究者としての実力に十分自信を持っていらしたことが伺える。

 

一方、猿橋先生の生まれつきの芯の強さを最もよく現していると私が思うのは、まだ猿橋先生が研究者になる前の、東京女子医学専門学校の入試のときの話。面接で、東京女子医専の創設者であり校長だった吉岡彌生に「どうしてこの学校を希望したのか」と聞かれ、「一生懸命勉強して将来吉岡先生のような立派な女医になりたい」と答えたところ、「私のようになりたいといってもそうたやすくなれるものではない」と笑われたそうなのだ。普通えらい先生にそんなことを言われたら、「そうかも・・・」と落ち込んでしまいそうなものだけれど、猿橋先生は反対に「(吉岡)先生への尊敬の念が次第に後退し、女子医専に入学することの期待は、大きな失望に変わって」(p54)いくのを感じ、最終的に女子医専への進学を取りやめる。猿橋先生の、権威への反発、潔癖、一途さ、芯の強さを感じさせて、すごく好きなエピソードだ。

 

ただ、そんな芯の強さを持ちつつも、猿橋先生、本書を読む限りあまり我が強くないというか、かなり謙虚な方なんだよなあ。まあ猿橋先生自身が書かれた本を読んでいないのでなんとも言えないのだが、例えば本書ではさまざまな場面における猿橋先生自身の心の葛藤がほとんど、というか全く書かれていなくて、それはおそらく猿橋先生自身の著書にそのような記述がないからなのではと想像する。一方で、研究者として最初から最後まで猿橋先生の恩師であり上司であった三宅泰雄博士に対する感謝の言葉がことあるごとに出て来るあたり、謙虚な方なんだなあと思うわけだ。生涯独身を貫かれたとのことだが、我の強くない清楚な美人とあれば、いくらでもお相手はいたのでは・・・?などとつい考えてしまったのだが、米沢先生も同じことを思われたのか、本書で、太平洋戦争で結婚相手となるべき年代の日本人男性が大量に戦死したという時代背景があるのでは、と分析されている。

 

ところで本書は、猿橋先生の死後、米沢先生始め数人の猿橋賞受賞者が起案して資料を集め、最終的に米沢先生がそれらの資料をもとに文章を書くという経緯で作成されたそうなのだが、あとがきに記されている米沢先生の超人ぶりにまたびっくりした。米沢先生、原稿2つと高齢のお母さまの介護を抱えて本書を執筆中、さらに甲状腺がんが見つかって入院→手術なさったとか・・・。病院にもコンピューターやプリンターを持ち込んで、手術の翌日には執筆を再開していたというのだから恐ろしい。まさに「化け物」・・・(←これは米沢先生ご自身が書かれていた言葉です)。いやこういうの読むと、自分はほんとにぼんくらだな・・・と改めて思うわけですよ。

 

米沢富美子先生、日本経済新聞の「私の履歴書」に連載なさっていたそうで、一応本が出ているのだが、アマゾンだと中古でしか入手できないんだよな・・・。

 

 

安藤百福さんみたいに「復刻版」としてウェブ掲載してくれないかな、日経さん。

 

style.nikkei.com

 

・・・と思ったら近所の図書館に上述の米沢先生の私の履歴書本があるのを発見。予約しました。楽しみだなー。

『狩人の悪夢』を読んだ

年が明けてやっと、仕事関連以外の趣味の本を読む余裕が出てきた。というわけで図書館で借りたのがこれ。

 

狩人の悪夢

狩人の悪夢

 

 

一昨年出版されていた、火村・アリスシリーズの最新刊。著者あとがきによると、このシリーズが始まってからもう25年らしい。ひえー。とは言え二人は変わらず30代前半で、火村は相変わらず京都の下宿に住んでぼこぼこの古いベンツに乗っていて、そしてアリスは売れているのかいないのか微妙なミステリ作家で、付かず離れずの二人の距離も相変わらずなのだけれど、それ以外の時は流れていて本書ではみんなスマホを使っていたりする。登場人物が年をとらない設定の長寿シリーズのご愛嬌であるな。

 

本書の舞台は京都亀岡。対談で知り合った売れっ子ホラー作家、白布施正都に誘われて、亀岡に住む白布施の住まいを訪ねたアリス。その部屋に泊まった者は必ず悪夢を見るという「悪夢の部屋」に一泊した翌日、かつて白布施のアシスタントだった渡瀬が住んでいた家で、右手が切断された女性の死体が発見される。発見されたのは、2年前に心不全でなくなった渡瀬の古い知り合い、沖田依子だった。壁についていた手の跡から、沖田の元彼で沖田のことを付け回していた大泉鉄斎が犯人の第一候補に挙がる。しかし大泉の捜索中、もう一軒の空き家で見つかったのは、左手が切断された大泉の死体だった。一体誰が犯人なのか。なぜ二人は殺されなければならなかったのか。二人の手首が切断されていたのはなぜなのか。その謎を火村がどう解くのか・・・。

 

一方、謎解き以外でも、この火村・アリスシリーズで気になるのが、火村が悪夢を見る理由が明かされるのか、そして明かされたとしてそれによって火村とアリスの関係性がどう変化するのか、というところ。前者については本書では特に進展はなかったものの、最後その火村の悪夢について言及するアリスと、それに答える火村の二人がなんだかいい感じで、じんわり来てしまった。もう私は二人よりもずいぶん歳を取ってしまったけれど、それでもずっとシリーズを読んでいると、火村が大学准教授ということもあって、なんだか以前から知っている友人のような気分になる。そういう感情をキャラクターに抱くことができるのは、シリーズものならではだよなあ。

 

火村・アリスシリーズを読むもう一つの楽しみが、基本となる舞台が関西で、知っている場所が出てくるところ。今回の舞台である亀岡には保津川下りで行ったことがある。白布施の待つ亀岡に向かう前に、白布施担当の編集者である江尻鳩子とアリスが待ち合わせをする京都駅JR嵯峨野線のくだりなんかは、実際の景色を思い浮かべながら読んだ。嵯峨野線は32番ホームだが、京都駅に30番以上もホームの数があるわけではなく、山陰本線の一部についた愛称が嵯峨野線で、山陰本線が発着するホームはサンにかけて30番台が振られているだけ、15番から29番線は存在しない、のだそうだ。知らなかった。

 

有栖川有栖といえば、国名シリーズの最新刊も出ていたんだった。

 

インド倶楽部の謎 (講談社ノベルス)

インド倶楽部の謎 (講談社ノベルス)

 

 

読まねば・・・。

『[図説]偽科学・珍学説読本』を読んだ

昨年買い込んだ疑似科学関連書籍の中で、かなり色物感の強いこの本。

 

図説 偽科学・珍学説読本

図説 偽科学・珍学説読本

 

 

これまで読んできた疑似科学に関する本は、いずれも、現代の疑似科学に対する注意を喚起するのが目的の、学術的な意味合いが強い本だったのだけれど、一方これは現在の知見からすると明らかにおかしい過去の「珍学説」を集めた軽い読み物。「地球平面説」や「優生学」、「錬金術」や、シャーロック・ホームズでも出てきた「骨相学」、イギリスのヴィクトリア朝で子どもの起源を治すためにアヘンやコカインなどの麻薬が使われていたという話などが、さまざまなエピソードを含めて紹介されていて、いくつかはそのトンデモっぷりに「まじか・・・」と苦笑しつつ読んだ。

 

なかでも、「そんなことある???」と驚いたのが、第6章と第12章。第6章は、「精力回復」を謳い文句に、サルの睾丸スライスを人間の陰嚢に移植したセルジ・ヴォロノフ(1866-1951)の話。当然のことながら、このような移植は効果がないばかりか、移植された人たちが死に始めた時点でこのような施術はおかしいということになったらしいが、おかしいとわかるまでにヨーロッパやアメリカで、ずいぶんたくさんの人が施術を受けたらしい。が、驚いたのはそのあとで、このヴォロノフによる移植実験が、サルに感染するSIVからHIVへの進化を促した、という説があるらしいのだ。

 

さらに第12章では、ヒトとチンパンジー、オランウータンとゴリラを異種交配させようとしたスターリンお抱えの生物学者イリヤイワノビッチ・イワノフ(1870-1932)の話が紹介されている。チンパンジーの精液をヒトに注入するというような恐ろしい実験を行っていたらしいのだが、これもまたHIVの進化を促した可能性がある、と書いてある。

 

ほんとかいな・・・と思ってちょっと調べてみたところ、イワノフの話についてはそれに言及した学術的な論文や本は見当たらなかったのだが、ヴォロノフの施術がHIVの進化を促したという説は現在では否定されているという記述が見つかった。さまざまなSIVのDNA配列データを用いた系統樹解析によって、HIVチンパンジーに感染するSIVから進化したということがわかっているらしい。また、SIVからHIVに進化したのはアフリカだということもわかっているそうで、これらのデータは、施術にサルの睾丸を使い、またヨーロッパとアメリカで活躍したヴォロノフHIV進化への関与を否定するものだ。

 

www.ncbi.nlm.nih.gov

 

 

HIVの進化についてはこんな本も出てた。

 

エイズの起源

エイズの起源

 

 

調べたところどうやらうちの大学の図書館にもあるらしいので、今度借りて読んでみようかな。

 

一方イワノフが上述の実験を行ったのはアフリカのギニア、かつチンパンジーを使ったという点ではHIVの誕生との整合性は取れているのだが、どうなんでしょうね。ちょっとググってみたけれどそれっぽい学術論文は見つからず。本書でも、イワノフの実験についてはほとんど情報が残っていないようなことが書いてあるので、議論できるほどのデータがないというのが実際のところかもしれない。

 

それから私、サブリミナル効果については疑いを持っていなかったのだが、本書によるとあれは実際には効果がないことが確認されているそうで。ホメオパシーの起源についても書かれていて、なかなか興味深い本でした。 

『科学はなぜわかりにくいのか』を読んだ

最近ずっと疑似科学関連の本を読んでいて思ったのが、「疑似科学の定義って難しい」ということ。疑似科学に関する本の数だけ、著者の数だけ定義がある。で、それって裏を返せば「科学の定義って難しい」ということ。まあそれだから「科学とはなにか」を考える科学哲学が、一つの学問分野として存在してしまうわけなんだけど・・・。

 

科学はなぜわかりにくいのか - 現代科学の方法論を理解する (知の扉)

科学はなぜわかりにくいのか - 現代科学の方法論を理解する (知の扉)

 

 

というわけでこの本。「科学とは方法論である」という立場から、その方法論についてとても丁寧に解説している。著者の吉田伸夫氏は、著者プロフィールを見ると、ご専門は素粒子論(量子色力学)とのことなのだが(量子色力学ってなんじゃろ・・・?)、「科学哲学や科学史をはじめ幅広い分野で研究を行っている」とある。研究活動を行いつつ、著作活動や大学での講義を通して科学についての啓蒙活動を行っている方なのかな?

 

第1章は、その吉田氏が大学で担当した科学史の講義を元に書かれている。「はじめに」にあるように、半期の講義を、恐竜絶滅の小惑星衝突説に関する1980年のウォルター・アルヴァレズらの論文の解説とその前史、その後の展開の解説に費したそうだ。すごい・・・。いろんなことをちょっとずつ、なら、教科書に沿ってやればいいんだけど、一つのことを掘り下げるとなると、論文やら解説書やらをたくさん読まないといけないから、かなり大変じゃないかな・・・。

 

で、そのアルヴァレズらの論文。Science誌には珍しく、14ページという分量で掲載されたそうで、「白亜紀第三紀の境界に当たる地層にイリジウムが高濃度で含まれる」というデータが小惑星衝突説のもとになっている。ただもちろんそのデータだけでは査読者たちを納得させることはできないわけで、じゃあどうやってアルヴァレズらが「小惑星衝突説」を説得力ある説にしていったのか、本書ではその過程がくわしく解説されている。その仮説と検証の積み重ねは「これぞサイエンス!」という感じで読んでいてわくわくしてしまった。

 

ちなみに元論文はこれですな。会員じゃないと本文は読めないけど。

science.sciencemag.org

 

第2章、第3章では、そのような学説が一般的に受容されるにいたる過程を、さらに詳細に検証していく。第2章では、1997年のnatureに発表されたクローン羊ドリーの論文を例に、科学論文とはそもそもどういうものか、どういう書き方がされているのかが解説されていて、読みながら、そう言えば私も一番最初に科学論文読んだときは結構面食らったな、ということを思い出した。いや、ちゃんと読んでいけばもちろん必要な情報は得られるんだけど、必要な情報以外は得られないというか、非常にそっけないというか、何をどう読んでいけばいいのか戸惑ったなあ。これから卒研で論文を読み始める学生さんも、多分最初は戸惑うんだろうなあ。

 

他にも、進化論や原発事故、抗がん剤などのさまざまな例がそれぞれ掘り下げて解説されていて、それによって科学の限界や、科学における数字の取り扱い方、そして「科学の方法論」が理解できるという流れになっている。読んでいて、すごく真面目で科学に対して誠実な方なんだろうなーと思った。

 

しかし一方で、科学って、科学に対して誠実であればあるほど、地味になったりわかりにくくならざるを得ないものなのかな・・・という印象も受けたんですよね・・・。この本、読んだのは昨年の秋ごろで、感想文を書きかけてなかなか進まなかったのは、面白かったしいろんな人に薦めたいと思いつつも、どう感想文を書けばよいのかよくわからなかったからで。本書のカバーの袖の部分に、「そもそも科学はどうしてこんなにわかりにくいのだろう・・・。そんな素朴な疑問に本書がずばり答えます」と書いてあるのだが、あんまり「ずばり」という感じはしなかったんだよな・・・。しかし派手さやインパクトを狙って本当に端的に「ずばり」書いてしまったら多分それは科学ではなくなるわけで・・・。ジレンマだなあ・・・。

 

ところで以前読んだ池内了氏の『疑似科学入門』で第三種疑似科学として定義されていた複雑系だが、本書では、「科学が深く関与するにもかかわらず、科学の範囲内で結論が出せないケース」として「トランス・サイエンス問題」と呼んでいた。そうそう、トランス・サイエンス。聞いたことあるわ。第三種疑似科学よりよっぽどいいよね。あの『疑似科学入門』、やっぱり問題あるよなあ、と思うのだが、疑似科学本の先駆け的な本で、かつ岩波新書という歴史・権威あるレーベルから出ているだけあって、いろんな疑似科学本で引用されているんですよね・・・むむむ・・・。

『暮らしのなかのニセ科学』『なぜ疑似科学を信じるのか』を読んだ

相変わらず講義準備のために疑似科学ニセ科学関連の本を読んでいる。というわけでまずはこの二冊。

 

暮らしのなかのニセ科学 (平凡社新書)

暮らしのなかのニセ科学 (平凡社新書)

 

 

なぜ疑似科学を信じるのか: 思い込みが生みだすニセの科学 (DOJIN選書)

なぜ疑似科学を信じるのか: 思い込みが生みだすニセの科学 (DOJIN選書)

 

 

疑似科学ニセ科学には、そもそもはっきりとした定義はなく、また科学と疑似科学の間に明確な線引は存在しない。だから疑似科学について書かれた本は、一つひとつの事例について検証していくというスタイルが多い。

 

『暮らしのなかのニセ科学』もそういった個別案件を一つひとつ検証していくというスタイルで、「暮らしのなかの」というタイトルからわかるように、その焦点となっているのは私たちの身近に存在しているニセ科学だ。ガンの民間治療、サプリメント、ダイエット法や健康法、食品添加物や水ビジネス、マイナスイオン、そしてEM菌について、具体的な人名・会社名・商品名を挙げて検証し、批判し、そして読者に注意を促している。

 

ちなみに左巻健男氏の本書における「ニセ科学」の定義は、

 

ニセ科学は、「科学っぽい装いをしている」、あるいは「科学のように見える」にもかかわらず、とても科学とは呼べないものを指します。(p3)

 

となっている。

 

本書には、そのようなニセ科学から国民を守るための法律(薬事法あらため薬機法、正式名称は「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」とか、「不当景品類及び不当表示防止法」略して景表法)に関する説明もあって、とても勉強になった。特にEM菌問題。ツイッターでよく見かけている割には詳細をよく知らなかったのだけれど、本書でEM菌が出てきた経緯やその危険性について読み、改めて怖くなった。某サイエンスライターの方が神経質になる理由もわかるな・・・。

 

そしてもう一冊の『なぜ疑似科学を信じるのか』。本書の著者である菊池聡氏は心理学が専門で、「疑似科学に騙される人の心理」について深く分析しているという点が、他のニセ科学関連の本にはない本書の特徴。上にも書いたように、疑似科学については明確な定義がなく、それぞれの著者によってそれぞれの定義付けがなされている。だから中には、例えば以前読んだ池内了氏の『疑似科学入門』における「第三種疑似科学」の扱いなど、「ちょっとそれは私には受け入れがたい」と思われる記載もある。一方、菊池聡氏の「疑似科学」の定義は

 

疑似科学とは、科学のように見えても「科学」とはいえない方法論やフレームワークに特徴があり、そこから生み出された次節にしがみつく一種の「信念」として考えるべきである。(p225) 

 

であり、「どんな研究対象もアプローチによっては疑似科学化する」という主張は、私的には非常に共感度が高く、また同時に本書を読みながらいろいろ反省させられることも多かった。特に、第9章に紹介されている「しろうと理論」。これが疑似科学に入るかどうかは別として、自分の経験に基づいて人の心理を判断し「あの人はこういう人だ」と決めつけるような行動、私も最近取りがちだなあ・・・。私個人の少ない経験に基づいた、主観の入った判断を一般化して決めつける前に、自分自身を常に疑う謙虚さを忘れないようにせねばならないな・・・。

『メディア・バイアス』を読んだ

毎日新聞記者で、食の安全などに関する著作があるフリーランス科学ジャーナリスト松永和紀さんの2007年の著作。

 

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)

 

 

タイトルの「メディア・バイアス」とは、「多種多様な情報の中から自分たちにとって都合の良いもの、白か黒か簡単に決めつけられるようなものだけを選び出し、報道」する、「メディアによる情報の取捨選択」(p6)の歪みのことだそうだ。「メディア・バイアス」で問題になった例として私が思いつくのは、本書でも取り上げられている「発掘!あるある大辞典II」の納豆ダイエット。確か、番組内で紹介されていた科学的なデータが捏造だったことがバレて、結局番組終了に追い込まれたんじゃなかったかな・・・。

 

www.excite.co.jp

 

「あるある」のようにデータ捏造や、不正確な報道が問題になった健康番組の例、自然派志向の人たちが陥りやすい有機農法への妄信的な信頼や添加物への反発、昔はよかったという懐古主義、そしてマイナスイオンや「水からの伝言」のようなニセ科学まで、メディアの報道がきっかけとなって広まった嘘について、さまざまな方向から分析して検証しているのがこの本。

 

この本を読んで思ったのは、著者の松永さんという方は、すごく真面目で謙虚で自制心の強い方なんだなーということ。新聞記者だった頃は「今から思えば反省するしかない記事を書いたことがある」(p7)と反省なさっているけれど、その反省があるからこそのこの謙虚さなのかな。いやもともとの性格かな・・・。自制心の強さは、ジャーナリストとして中立であらねばという使命感から来ているのであろうな。

 

第4章「警鐘報道をしたがる人々」に詳しく書かれているように、「「危なくない」を伝えるためには、さまざまな角度から微細に検討し、「大丈夫」「大丈夫」と証拠を積み上げて」(p92)いかねばならない。 しかし、そうやって証拠を積み上げていくためには、いろんな論文を読んだり専門書を読んだり、また専門家に取材をしに出張なんかも必要になってくる。フリーランスのジャーナリストだと、「交通費を出版社が出してくれれば御の字。論文や専門書の購入費までは面倒みてくれません。結局、まともに情報収集すると、原稿料はほとんど残らない、という事態になります」(p240)「フリーのライターになって数年は収入があっても取材経費を引けばほとんど残らない、いえ赤字になってしまう」という状況だそうな。大変・・・。

 

一方、報道に携わる会社員なら、「科学的根拠がある「危なくない」記事よりも、世間を驚かす「危ない」記事を書いたほうが、社内的な評価ははるかに高い」(p91)し、またフリーランスなら一企業の広報だけに取材して、企業べったりの記事を書いても、原稿料は同じなのだから、まあそりゃ適当な記事が多くなるよね・・・。

 

この本で取り上げられているメディア・バイアスやマスメディアの中の人々の不勉強さは、私のツイッタータイムラインでも頻繁に話題になっている。もちろん中にはしっかり勉強して取材して科学者にも信頼されるような記事を書いてらっしゃるような方もいらっしゃる(STAP騒動の話を本にした毎日新聞記者の須田桃子さんとか)けれど、そうでない人、偏向的な記事が圧倒的に多いのも現状。

 

そんなマスメディアの現状は変えられないのか?偏向的な報道を止めるにはどうしたらいいのか?という質問に対して松永さんは、「恥ずかしいことですが、マスメディア自身に改善能力はないかもしれません。」(p4)と、かなり悲観的な見解を述べられている。そのような状況を踏まえた上で、情報の受け取り手が自分で分析して判断することが重要だと読者に呼びかけている。

 

ただ、昨年の「ガッテン!」の例なんかを見ると、マスメディアも少しずつだが改善されているのかなとも思ったり。詳しいことは下の記事に書いてあるけれど、「ガッテン!」で放送された内容が危険だとして話題になり、直後に関連学会から異議が申し立てられ、翌週の番組最初でアナウンサーによる謝罪がなされたのは結構はっきり覚えてる。

 

www.zakzak.co.jp

 

まあ、健康にすぐに害が出るわけではない「酵素飲料」なんかは、未だに自然派を辞任する健康マニアの方には支持されているようで、昨日もラジオで宣伝されているのを聞いたし、マスメディアが改善されているというより、科学者たちが声を上げるようになってマスメディアが対応せざるを得なくなったというのが正解、という見方もあるな・・・。

 

わかりやすく柔らかい言葉遣いの文章からも、多くの人々に伝えなければ、という使命感を感じる。松永さんのツイッター、フォローさせていただきました。

 

twitter.com