『いのちを”つくって”もいいですか? 生命科学のジレンマを考える哲学講義』を読んだ

後期に「生命と科学の倫理」なる講義シリーズを一部受け持つことになっているので、書籍部で見かけてこんな本も読んでおいたほうがいいかなと思い買ってみた。

 

いのちを“つくって

いのちを“つくって"もいいですか? 生命科学のジレンマを考える哲学講義

 

 

のだが・・・。私には全然合わなかったです。読んでいてすごいフラストレーションがたまった。

 

そもそもタイトルからして合わなそうだなとは思っていたんですよね。私、「きずな」とか「いのち」とか、ひらがな表記に過剰に精神的な意味合いをもたせるのが嫌いでして・・・。「はじめに」の冒頭に書かれている以下の文章を読んだときにもうすでに、あ、これだめだなと思いました。

 

しかし、その一方で、新しい「治療法」やバイオテクノロジー(生命工学)の発展についてのニュースを聞くと、そこまでやってしまってよいのだろうかと疑問をもつことも多いのです。とくに、人間の生活のあり方を大きく変えてしまうような医学・生命科学の展開には危うささえ感じます。たとえば、見ず知らずの人に自分の子どもを生んでもらう代理母とか、受精卵を選んで親がよいと思う遺伝的特質をもった子どもを生む、などといった例です。(p1-2)

 

いや確かに「受精卵を選んで親がよいと思う遺伝的特質をもった子どもを生む」は議論すべき問題だとは思うけれども、「代理母」問題も同列なんだ!?といきなりびっくりしてしまった。いや、私が代理母問題をよく知らないだけかもしれないけれど、私は少なくともその2つの事例は同列に扱うべき問題だとは思わなかったな・・・。

 

もちろん、違う考え方があること自体はいいのだ。私はこの本に書かれている多くのことに反対だけれど、違う考えを持つことは別に悪いことではないし、そうやって違う意見を闘わせて議論を深めていくべきなのだ。それはそうなのだけれど、私が本書を読んで一番フラストレーションを感じたのは、著者の島薗進さんの考えがどこにあるのか、彼は何を良いとして、どうすべきだと考えているのかがはっきりと提示されていなかったところ。一般論に終始し、「これでいいのでしょうか」と問題を提起するばかりで、「私はこう思う」という態度がはっきりと示されていないところ。「問題提起としての本」という意味であえて自分の態度をはっきりとさせていないのかもしれないが・・・。

 

しかし一方で、「私はこう思う」という個人としての考えが名言されていないのは、筆者が自分の考えが一般的に認められているかのように思い込んでいるからなのでは?という危惧も覚える。私がその危惧を強く感じたのは第5章、156頁の次の文章。

 

 いのちという言葉を、漢字の「生命」で表すとき、それは科学的に観察されうる対象としての、他者や外部から切り離された個別のいのち、という意味が含まれがちです。一方、ひらがなで「いのち」というとき、そこにはひとりひとりの人間のいのちであるという意味と同時に、お互いのいのちがつながり合っている、連帯・共同性のなかにある、ということが含意されていると思います。(p156)

 

いやいや、「含まれがちです」とか言われてもねえ・・・私は少なくとも「生命」という言葉を使うときにそんな過剰な意味は含ませてないから。それに「いのち」の漢字は「生命」じゃなくて「命」ですから。「いのち」とひらがなで書いて連帯・共同性の中にある生命という意味を含ませるという用法、別に一般的じゃないですから。そういうひらがなに過剰な意味合いをもたせたがる一部の人たちはそうかもしれないですけど私はそうじゃないですから。

 

上の文章が、「私は・・・と思います」というように主語がはっきりした文章だったらよかったのだ。それなら「私はそうは思わないけど、この人はそう思うのね」と納得できる。でも主語が入らないこの文章だと、読者としてはそれが一般論であるように感じる。上述の考え方は明らかに一般的なそれではないのに、まるで一般論であるかのように語られてしまうのは、特に生命倫理のようなデリケートな分野では大いに問題であると思う。そして問題は、上の文章の「いのち」という言葉の解釈のみならず、本書で語られる生命倫理に関する全ての話題について、著者は自分個人の考えを一般論と錯覚していないだろうか、ということだ。あとがきによると東大の名誉教授である著者の島薗進さんは、生命倫理委員会の会員として「ヒト胚の研究・利用」に関する議論に参加なさったそうだけれど、そういう重要な立場にある人が、自分個人の意見と他人の意見を明確に区別できないようでは困るんですよね・・・。

 

一方、一般論として語られているかのように見える島薗さん自身の考えは、実はかなり過激なものだ。本書で島薗さんは、「つながりのなかに生きるいのち」という考えを提案しているのだけれど、その例として示されているのが、楢山節考における姥捨山、江戸時代の農村で行われていたという堕胎・子どもの間引きなのだ。いやそれは肯定しちゃだめなんじゃないの・・・?以下の文章など、私にはかなり衝撃だった。

 

 ただ、このように堕胎や間引きを行わざるをえないようなあり方を受け入れていたとしても、その罪を決して悔いなかったわけではないでしょう。(・・・)決してそこに倫理的葛藤がなかったわけではないのだと思います。

 そしてその葛藤は、共同体の人口問題と強く結びついていました。一家に男子が増えていけば、次男・三男など長男以外の者は、成人しても土地を譲ってもらうことはできません。そうすると、彼らは鬱屈した人生を送らざるをえなくなるわけです。また、飢饉などが起これば、生まれる子の数が多いほど共同体自体が苦しい状況に置かれることになります。それは結果的に、共同体としてのいのちを未来へと引き継いでいくことを妨げてしまうことになります。つまり、「一定の土地に住める人数には限界がある」ということが共同体を構成するすべての人によって常に意識され、子孫への配慮、将来世代への配慮がなされていたのです。(p183-184)

 

そして更に衝撃なのが、著者がこのような共同体へ配慮した姥捨山・堕胎・間引きのことを「エコロジーの意識、未来の世代のためにも持続可能な社会をつくらねばならない、という考え方を先取りしている」と言っているところ。エエエ、エコロジー????人を殺すのがエコロジー???望まない妊娠の中絶には私は反対しない立場だけれど、生まれた子どもの「間引き」なんて完全に犯罪じゃないですか。それを認めるばかりか「時代を先取りした考え方」とまで言ってしまうのは本当に著者の倫理観を疑うし、仮に島薗先生の意見を尊重するとしても、共同体のために自分の子どもを手にかけなければならなかった幾多の人の悲しみを「倫理的葛藤がなかったわけではないと思う」などという言葉で片付けてしまうのは本当にありえない。

 

一貫して思うのは、著者の島薗さんは、恵まれた環境に生まれ育った成功者、強者としての立場から、弱者の気持ちなど一つも理解せずにこの議論をしているんだなということ。そして現代社会がどんなものか、ちゃんと見えていないのでは?ということ。例えば第2章、出生前診断着床前診断によって、障害を持つ可能性が高い子どもを予め排除するという行いに対して、島薗さんは批判的な立場を取っているのだが、それに関しての以下の文章。

 

もちろん、個々には経済面や労力の負担がとても困難な場面も出てくるかもしれません。しかし、全体としてそれを支えるに足るだけの豊かさを、私たちの社会はもってはいないでしょうか。(p72-73)

 

・・・いや、今の日本社会は全然豊かじゃないから。東京五輪なんて国の威信をかけたイベントを開催するのに、人を雇うお金がなくてボランティアだけで済ませようとしてるくらいですから。まあこの本が出版されたのは2016年、そのときはまだ東京五輪のボランティア問題はなかったとしても、健康保険や年金が破綻しつつあるという状況はその当時も相当深刻だったはず。この人、パラレルワールドに生きてるのかな???と頭がはてなだらけになってしまった。

 

・・・と、まあ批判的なことばかり書きましたけど、これはあくまでも私個人の意見です。ということであしからず。