『科学者はなぜ神を信じるのか』を読んだ

昨年、本屋で見かけて興味を惹かれながらもそのときは買い逃し、以来探していたこの本をしばらく前にやっと見つけて購入。

 

 

ここ1年くらいで科学史関連の本を何冊か読んだのだけれど、過去の科学者、哲学者が非常に宗教的であったことを知るにつれ、「科学と宗教」について考える機会が増えていた。このブログでも以前書いたけれど、ニュートンが後年錬金術にのめり込んでいたという事実を知ったときはかなりびっくりして、その理由を知りたくて錬金術についての本を読んだりもした。

 

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結局、この『錬金術大全』の中には私が欲しかった答えはなく、その後、現在まだ読みかけの科学史に関する本の中に「ニュートンは非常に敬虔なカトリック信者で、万有引力も神の力によるものだと思っていた」というようなこと書かれていたのを読んでそれなりに納得したのだが、では「なぜニュートンは神を信じていたのか」という理由としては、まあ時代だったのかなあ程度の認識しかなかった。

 

で、そんなときにこの本を見かけて「これは読まねば・・・」となったわけだ。まあ一番最初に書いたように、最初に見かけたときは購入せず、実際に購入したのはしばらく経ってからなのだが。

 

著者の三田先生は、素粒子論の理論物理学者であり、カトリック教会の助祭(司祭に次ぐ職位らしい)でもあるという方。「はじめに」によると、高校生(おそらく日本の高校生だろう)相手の授業をしていたときに、「科学の話の中で神を持ちだすのは卑怯ではないか」という質問を受け、それをきっかけとして「科学と宗教」について考え始められたのだそうな。

 

「科学者はなぜ神を信じるのか」に対する答えを得るために、本書では、歴史上有名な科学者たちと神との関わりを紹介していく。取り上げられているのは、コペルニクスガリレオの地動説、ニュートン万有引力アインシュタイン相対性理論素粒子論、ホーキングの宇宙理論。それらの科学者が宗教(主にキリスト教)をどう考えていたのかが綴られると同時に、彼らが唱えた理論の話がわかりやすく説明されていて、物理の入門書としても面白い。恥ずかしながら、私はこの本で初めて相対性理論素粒子論の概要を理解しました。また、宗教について、それらの科学者が同時代の他の科学者と交わした会話、手紙のやり取りが非常に興味深い。第6章のコラムにあるハイゼンベルクディラックとパウリの「神と科学」についての会話は、三田先生自身の翻訳だそうだけれど、これを読むだけのためにでも本書を買う価値はあると思う。

 

ところで私自身は、大半の日本人と同様、一応形としては仏教徒でお寺に先祖のお墓があるけれど、基本的には無神論者だ。神社やお寺に行けばお参りするし、神社でお祓いをしてもらったこともあるけれど、神様や仏様のご利益を信じているからそうしているというより、宗教に対する一種の尊敬からそうしている、という感じ。天国も極楽も信じてはいなくて、死んだら眠ったような状態になって何もなくなってしまうのだろうと思っている。とは言え、うちの母と祖母は割と宗教的な人たちで、祖母は、まだ元気な頃には、有名なお上人さまの話を泊まり込みで聴きに行っていたくらいのかなり敬虔な仏教徒だし、中学校高校とカトリックの学校で学んだ母は、自身はカトリック教徒ではないもののキリストの教えには大きく影響を受けていて、神様でも仏様でもどちらでもないようなどちらでもあるような絶対的な存在を信じているようだ。齢を取るにつれて宗教的になって言った人の話もよく聞くし、また私も今後の人生でなにか耐え難いほどの恐ろしくつらいことに出会うかもしれず、そうなったときに最終的に頼るのはきっと宗教なのだろうと思ったりもする。でもとりあえず今のところは「神様や仏様を信じる」というのがどういうことなのか、よくわからない。

 

一方それと矛盾するようであるけれど、宇宙の成り立ちや宇宙の外側などについての科学者の話を読んでいると、時折「神」についての言及が出てくることがあり、そういうところで現れる「神」に対してはなんとなく理解できるという自分もいる。私が小学生のとき、宇宙について少々興味が湧いて、宇宙について書かれた本を母に買ってもらったのだが、その本を読みながら、ビッグバンの前の世界とか宇宙の外の世界などを考えていたらどんどん怖くなってしまって、結局宇宙に対する興味はそこで薄れてしまった。未だに「宇宙の果て」なんてことを考え始めると怖くてたまらなくなって即座に頭から追い払うようにしているのだが、そういう途方もなく壮大なスケールのことを考え、そしてそんなにも壮大なスケールの事象が秩序だった数式で説明されるという事実に遭遇するときに、その美しさと不思議さに、神のような絶対的な存在を感じざるを得ないのだろうということはなんとなく理解できるのだ。

 

で、「なぜ信じるのか」。三田先生の解釈は本書の「終章」に書かれているからそれは読んでもらうとして、本書を読んだ私自身の解釈は次の通り。コペルニクスガリレオニュートンなど近代以前の研究者にとっての宗教は、上にも書いたように、宗教が生活の一部だったから、つまりそういう時代だったから、だから信じていたというのが主な理由なのではないだろうか。一方で、本書で紹介されている、アインシュタイン素粒子論に関わる研究者たち、またホーキングなどにとっての宗教は、無神論者と言われていながら後年は宗教的発言が多かったアインシュタインに代表されるように、「神のような絶対的な存在を信じざるを得な」くなった結果の到達点なのではないだろうか。私もこれまで科学者の端くれとして科学に携わってきて、顕微鏡を通して見る細胞の中の小さな世界を前に「こんな小さくて複雑なものがこの世の中にある」という美しさ、不思議さに呆然とした瞬間が何度かあった。私の場合は科学の周辺部でうごうごしている程度なのだが、結局、「世界の根源」について突き詰めて考えて、その中で世界の美しさ、不思議さに打たれるとき、「絶対的な存在」を考えざるを得ないということなんじゃないかな。

 

ところで「科学とニセ科学」について書かれた本の中で、しばしば「ニセ科学」は「宗教」に例えられる。「科学」が、世界の成り立ちについて理論的な説明を与えようとする行為であるのに対し、「宗教」は、神様によって「こういうものだ」と定義された世界を疑うことなくそのまま信じるという行為、というわけだ。つまりこのような記述の中で、「科学」と「宗教」は対極に位置するものとみなされている。確かにその図式は明確でわかりやすいのだけれど、本書を読んでいて、そんなふうに割り切るのは少し違うなと改めて思った。もちろん一部の悪質な新興宗教は、信者からお金をむしり取るためにわざと信者を思考停止の状態におい込んだりするのだろうけれど、キリスト教が時代に合わせて変化していることからもわかるように、真の宗教家は、思考停止に陥いることなく神に近づくためにたゆまない努力を重ねている。本書の最後の下りで三田先生がおっしゃっているように、神を信じそれに近付こうとすることも、科学で真実を明らかにしようとする(と言うのは非実在論的立場から言えば正しくないのかもしれないがここでは敢えてこう書く)ことも、「考え続ける」という点では同じなのだ。そういう意味では、「科学ではわからない」などと思考停止に陥っているものをニセ科学と定義することもできるな、と、考えたのだった。