『暗闇・キッス・それだけで』を読んだ

この前近所の図書館に行ったときに森博嗣コーナーを探していて見つけたこの本。

 

 

毎日寝る前にちょっとずつ読んでいたのだが、昨晩佳境に入ってしまい、どうしても最後まで読みたくなって、朝の通勤電車の中で読み終えた。今、もう一冊ハードカバーの本を読みかけで、二冊のハードカバーを抱えつつ通勤。 我ながら非効率的だけど、今読みたい本がハードカバーなんだから仕方ない。

 

森先生の本は、数年前に「S&Mシリーズ」を読み、その後またしばらく間が空いて「Vシリーズ」と「四季シリーズ」を読み、それからまた早数年経った最近、ふと森先生のミステリを読みたい!という気分になり、Gシリーズに手をつけた。で、『キウイγは時計仕掛け』まで読んだのだけれど、その後は二冊が既刊・最新刊はつい最近出版されたばかりで次の作品が出版されるのは二年後・そして次の作品がGシリーズの最終巻、という話を冬木さんのブログで読んで、なんだか次の二冊に手をつけるのが勿体無いというか、最終話に向かっていくGシリーズの仲間たちとのお別れを予想して寂しくなってしまい、まだ次の二冊(『χの悲劇』と『ψの悲劇』)に進めないでいる。

 

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

 

で、じゃあ「Xシリーズ」を読もうか、と思ったりもするのだけれど、なんとなくGシリーズの余韻に浸っていたい気持ちもあり、でも森ワールドからも離れづらく、そういうわけで単発の作品などを図書館で探して読んでいる。以上、この『暗闇・キッス・それだけで』を読んだ理由でした。

 

で、この『暗闇・キッス・それだけで』なんだけど、途中で気づいたのだけれど実は単発の作品ではなかった。同じ主人公の『ゾラ・一撃・さようなら』という作品がシリーズ第一作として発表されていた。とはいえ今のところはこの二冊だけで続刊が出るかどうかもわからないので、ウィキペディアでもシリーズとしての記載はなされていなかったのだけれど。

 

森博嗣 - Wikipedia

 

本作品の主人公は頸城(くびき)悦夫というライター兼探偵。本業は探偵なのだが(たぶん)、出版社勤務の元恋人である水谷優衣の誘いで大富豪のウィリアム・ベックについての本を書くことになり、ベックの別荘がある軽井沢(?と明確には記されていなかった気がする。夏でも涼しい避暑地という設定)に赴く。広大な土地に建てられた豪奢な別荘で起きる殺人事件。それを最後に頸城がさらっと解決する、というのが身も蓋もない感じのあらすじです。

 

主人公の頸城は30代後半くらい、過去にとてつもなくつらい経験をしたらしく、それで人生に対して絶望してしまったような何に対しても常に冷めているような男性。それでいて割とそつなく仕事をこなし、それなりに贅沢な生活も楽しんで、優衣以外の女性には淡白なのになぜかいつもモテてしまい、深入りする気もないのにふとキスなんかしちゃったりする・・・ってこれ村上春樹っぽくない?

 

そう考えてみたら、S&Mシリーズの犀川先生もVシリーズの林さんもGシリーズの海月も、春樹要素あるよね・・・。犀川先生と海月は不特定多数の女性にモテるというわけではないけど、犀川先生は萌、海月は加部谷からそれぞれ好かれているのに両者とも自分から積極的に出ることはなく、いつもなんだか冷めていてどこかつれない。やっぱり森先生の本が売れるのも村上春樹の本が売れるのも、こういう「自分からはあまり積極的に動かないのになぜか異性からモテモテで、物事に動じない常に冷めた人間」てのが人類の一つの理想像だから、なんですかね?

 

そういった思わぬ共通点に気づきつつも、森先生の本は読んでしまうこの不思議(村上春樹は登場人物の気のないモテぶりが全く共感できないし「はあ?」ってなるので読まない。でも『羊をめぐる冒険』は良かった)。理系らしい硬質な感じの文章が好きだからかな・・・。森先生の文章、時々ロマンチストぶりが炸裂していてちょっと赤面してしまうのだけれど、それでも「すべてわかっていて書いてる感」「雰囲気だけで書いてない感」があって好きなんだよな。まあ全部私の主観的意見なんですけど。

『科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義』を読んだ

京大(とははっきり書いていないが)で哲学を教える50代半ばの柏木教授が、学生や同僚との対話の中で哲学を紐解いていく「柏木達彦」のシリーズ第三作。この文庫本自体はもう絶版になっていて、第一作の『柏木達彦の多忙な夏』は最初Kindleで購入して読んだのだが、それがとても面白かった上、これはぱらぱらめくれる紙の本で持っておいたほうがいいやつや・・・と思い、中古で全三冊揃えた。

 

科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義 (角川ソフィア文庫)

科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義 (角川ソフィア文庫)

 

 

本作の第一章では学部1年生への講義の中で「原子論」が語られ、第二章・第三章ではこのシリーズの常連で物理専攻の学生、咲村紫苑との対話の中で「観念論的転回」「言語論的転回」についての説明がなされる。

 

三作通して読んで思ったのは、この柏木達彦シリーズのテーマ、というか、作者の富田先生の研究テーマは、「人智を超える絶対的真理の存在の有無」なのかなと。そして「そんな真理はない」というのが柏木の、ひいては富田先生の結論なのかなと。結局のところ人間は、自分の感覚や思考を通すことによってしか世界を認識し得ない。だから、私たち自身が自分の存在の外にある絶対的真理を見つけようとしてもそれは無理なことだし、そもそもそんなものは存在しない(存在を証明できない)。そしてそんな真理がなかったとしても、人は生きていかねばならない。絶対的真理という指標なしに進む人生は、暗闇の中を進むがごとくつらいものであるかのようにも思えるけれど、そのよすがになってくれるのが「哲学」なのだ、というのが、富田先生や富田先生と親交のあったローティの考えなのかな。少なくとも、私自身はそう理解しました。

 

シリーズを通しての概要はそう理解したものの、議論されている個々の思想については完全に理解できたとは言い難い。とてもわかりやすい文章でつるつる読めてしまうので、一応の理解は追いついたと思うのだが、じゃあ書いてあったことを説明してよと言われたら、すみませんできませんとなってしまうな・・・。

 

しかし得てして入門書を通しての理解というのはそういうものなのかもしれない。わかりやすい文章で読者の理解とさらなる興味を促すのが入門書の役目だとしたら、私にとってこの『柏木達彦』シリーズは哲学の入門書としての役割を十分に果たしてくれた。他にも哲学史など数冊を読み終え、そろそろ専門書を読んでもいい時期だなと思っている。そして専門書を読んで、よくわからなくなったらまた柏木達彦シリーズに戻ってこよう。

 

ところでこの角川ソフィア文庫の『柏木達彦』シリーズ、もともとはナカニシヤ出版から出ていた同シリーズの改訂文庫版なのだが、調べたらナカニシヤ出版からは全5作が出版されている。うち一作目の『多忙な夏』はそのままの名前で、『秋物語』が『プラトン講義』に、『冬物語』が『哲学革命講義』に改題・改訂されて文庫として出版されているのだが、ナカニシヤ出版から出ている同シリーズのうち『春麗ら』と『番外編』は文庫化されていないようなのでこれはこれで単行本を買わねばなるまい・・・。

 

そしても一つ「ところで」、柏木達彦シリーズにおいて柏木と並んで主要な登場人物、咲村紫苑は、富田先生が実際に教えた武仲能子さんという物理学の学生さんをモデルとして描かれている。ちょっとググってみたら、この武仲さんという方、理研の主任研究員として活躍なさっているらしい。さきがけも通っている・・・。その上、学部の頃から科学哲学に興味を持って富田研に通いつめ、自らローティに電子メールで質問したり、ローティが来日した際にはセミナーに参加して質問したり、富田先生と科学哲学関係の論文も出しているそうだ。す、すごい・・・。

 

「ローティに電子メール」「来日時にセミナーで質問」のところは富田先生のホームページに書かれていた。この頁、ググれば外部からアクセスできるんだけど、富田先生のホームページトップからはどうやって辿り着けばよいのかよくわからない。隠れページ?

 

sites.google.com

 

『グラン・ヴァカンス 廃園の天使I』を読んだ

久しぶりのSFは、しばらく前に買ってあった飛浩隆のこれ。

 

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

まだまだSF初心者で、古典以外のSFは何を読んでいいのかわからない。特に日本人作家のSFはよくわからない。というわけで信頼できそうな人の意見を参考に、次に読む本を探して少しずつ読んでいる。今のところ参考にしているのは漫画『バーナード嬢、曰く』と冬木糸一さんのブログ。

 

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

 

この『グラン・ヴァカンス』も冬木さんのブログだかツイッターだかで知ったような気がしたんだけど、改めて調べたら冬木さんが『グラン・ヴァカンス』について感想を書いた記事は2010年だった。冬木さんをフォローし始めたのはここ数年のことだから、グラン・ヴァカンスについて書いた記事じゃなくて飛浩隆の他の小説について書かれた記事からこのグラン・ヴァカンスの記事に飛んだのかな・・・それとも他の人の記事だったのかな・・・。不明。

 

それはそれとして、本書『グラン・ヴァカンス』。副題「廃園の天使I」とあるように、三部作の予定のシリーズの第一作で、現在二作目までが発表されている。舞台となるのは<数値海岸(コスタ・デル・ヌメロ)>と呼ばれる仮想リゾート内の<夏の区界>。南仏の港町を模した場所で、ゲストとして人間が遊ぶことを想定して作られた仮想空間だが、1000年前の大途絶(グランド・ダウン)でゲストの来訪が途絶えて以来、何千人ものAIたちが変わらない夏の一日を過ごしている。その<夏の区界>に、ある日いきなり大群の<蜘蛛>が現れて、すべてのものを無にし始める。残されたAIたちと<蜘蛛>との戦いの過程で、<数値海岸>の秘密が徐々に明らかにされていく・・・というあらすじ。

 

文章は非常に絵画的で、かつ描かれるその絵がとても美しい。南仏の海岸、白い雲が浮かぶ青い空、そしてその空よりももっと青い海に砂浜で遊ぶ美しい少年少女。そしてその少年少女を襲う黒い蜘蛛・・・ってこれそのままアニメ化されてもいいような気がするんだけど。仮想空間におけるAIから見た世界、という設定なのだけれど、砂浜で作られる不思議な力を持った結晶のような硝視体(グラス・アイ)、砂地から立ち上がるAIたちの反射像(エコー)、砂地を踏む音に含まれる棘刺波(スパイク)、蜘蛛に食われた空間を縁取る官能素(ピクセル)、と言った小道具や造語の力で一気に物語の中に引き込まれる。そして大途絶とはなんなのか、<蜘蛛>たちは一体なぜAIたちを襲うのか、と言った謎に引きずられて、最後は頁をめくるのももどかしいくらいに一気に読んでしまった。

 

ただちょっと残念だったのは、私的に文章の硬度・純度が少々足りなかったところかな・・・。もう少し硬質な文章のほうが「美しい仮想空間」を描くのにはより適していたように思うんだけれど。でも文章の硬度ってじゃあなんなのか、具体的にどういうことかを問われると困ってしまうのだが、例えばスタニスワフ・レムの『ソラリス』とかグレッグ・イーガン、分野の違うところで言うとレイモンド・チャンドラーの文章は私的には硬度が高い。まあいずれも翻訳ものなので、じゃあ翻訳ものは硬度が高いのか?と言われるとよくわからない。日本人作家で硬度の高い文章を書く人、がすぐには思い浮かばないので、もしかしたらそうなのかもしれない。違う国の言葉を日本語に訳すという距離感が、文章の硬度を生むのかもしれない。上に挙げた三人の作家の中でチャンドラーだけは原文で読んだことがあるのだが、ハードボイルドの代表作家であるだけに乾いた感じの文章が印象的だったので、硬度の高さと湿度の低さは相関があるのかもしれない。

 

ただ純度となるとまた別の話で、これもまた言葉でちゃんと説明できないのだが、例えば村上春樹とか川端康成とかは私的には純度が高い。文章における作家のセンスの具現度が高いということなのかもしれない。そういう意味で言うと、この作品は飛浩隆の作家としての第一作らしいので、これ以降の作品でどう成長しているのかが楽しみだ。

 

文章の点で言えば一番違和感というか「合わなさ」を覚えたのは登場人物たちの言葉遣いだな。例えば女の子の台詞の語尾が「・・・だわ」「・・・かしら」、老人の一人称が「わし」、漁師を生業とし男性もかなわないほどの屈強さを自慢にする荒くれ者の女性が謝るときは「すんませんでした」・・・。こういうあまりに陳腐というか類型的な言葉遣いは、萎えてしまうんだよなあ私・・・。まあもちろん本作の登場人物はこの仮想空間の作成者によってすべての設定を与えられたAIたちなので、そういう意味では類型的な台詞回しになるというのは間違っていないのだが。でも主人公の台詞回しって、翻訳者の村井理子さんもどこかで書いていらしたけど、難しい問題だよね。

 

未知の世界について書かれた物語の三部作で、第一作でその世界における攻防が描かれて・・・というと、ついこの前読んだ『サザン・リーチ』を思い出す。

 

全滅領域 (サザーン・リーチ1)

全滅領域 (サザーン・リーチ1)

 
監視機構 (サザーン・リーチ2)

監視機構 (サザーン・リーチ2)

 
世界受容 サザーン・リーチ

世界受容 サザーン・リーチ

 

 

『サザン・リーチ』では最終的に謎が完全に明らかになることはなかったけれど、この「廃園の天使」はどうなるんだろう。最終作はまだ発表されていないらしいけれど、とりあえず二作目の『ラギッド・ガール』を読んでみることにしよう。