『ドリトル先生航海記』を読んだ

本屋で見つけて、「新訳出たんだ」とつい買ってしまった。

 

ドリトル先生航海記 (新潮文庫)

ドリトル先生航海記 (新潮文庫)

 

 

で、買って読み終わってから、新訳版の訳者が生物学者福岡伸一氏であることに気づいた。彼の本は今までに二冊ほど読んだけど、あの村上春樹かぶれの文章ばかりが気になって、内容は全然覚えていないんだな・・・。この本も、訳者が福岡氏であると気づいていたら買わなかったかもしれない。気づかなくてよかった。なぜならこの本、めちゃくちゃ良くて、ドリトル先生の面白さを再認識できたから。

 

この前実家に帰ったときに本棚を確認したところ、我が家にあったのは昔の岩波版(つまり井伏鱒二訳)の『ドリトル先生アフリカゆき』と『ドリトル先生航海記』の二冊で、内容はあまり覚えていないものの、小学校のときに読んだ記憶がある。内容を覚えていないのは、当時の私がそれほど『ドリトル先生』にのめり込めなかったから、繰り返し読まなかったからだろう。だっておそらく同時期に読んだ『メアリー・ポピンズ』シリーズはそれぞれ何回も読み返していろんなエピソードも覚えているもの。

 

で、子供のときにあまり一所懸命読まなかったという後悔もあってこの新訳版を手にとったわけなんだけど、この本を読んで「ドリトル先生ってこんなに面白かったんだ?」とびっくりした。私は子供のときは生物に全然興味がなかったから、単に嗜好が変わったせいもあるのかもしれないけど、新訳版がすごく魅力的だというのも大きな理由だと思う。福岡氏のあとがきにもあるように、新訳版ではドリトル先生の口調が大きく変わっている。井伏鱒二ドリトル先生が「わしは・・・」とか「・・・だわい」と言った典型的おじいさん口調で話していたのに対し、新訳版のドリトル先生の一人称は「わたし」で、語尾もいたって普通。そしてそれが、誰にでも公平で誰とでも対等なドリトル先生の人となりをより強調していて、そしてより一層親しみが持ててとてもよい。だって「わし」って一人称、それだけでなんかちょっと偉そうで、あんまり仲良くなれなさそうだもんね。

 

そうやって改めて読んだドリトル先生は、博物学者として秀でているのみならず、運動能力にも優れていて、これまたびっくりした。小太りっていうのは覚えていて、てっきり運動神経は鈍いのかなと思っていたのだが、牛の角をつかんで逆立ちするという曲芸は見せるは、蛮族との戦いでは伝説に残るほどの勇猛果敢な戦いぶりを見せるはでまさに超人。以前、「映画版のドリトル先生ロバート・ダウニー・Jrが演じる」というニュースを聞いたときは違和感しか覚えなかったのだが、今回この本を読み直して心底納得した。このドリトル先生の活躍っぷりは確かにロバート・ダウニー・Jrだわ・・・。

 

www.cinematoday.jp

 

内容はとても面白かったのだが、最後、ドリトル先生一行がイギリスに帰るときの話は違う意味でびっくりしてしまった。いやこれ絶対死ぬでしょ。ドリトル先生執筆当時って1920年代くらいなんだけど、その頃まだ「空気」の概念ってなかったのかな・・・?いやそんなことないよね・・・。ちょっと空気の発見の歴史をおさらいしなくては・・・。この本でも読もうかな。

 

空気の発見 (角川ソフィア文庫)

空気の発見 (角川ソフィア文庫)

 

 

福岡版『ドリトル先生』、今後の定番となるべき素晴らしい訳でした。ぜひ続けてシリーズの他の本も訳してください!

『科学技術をよく考える』を読んだ

昨年生協で見かけて買ったのかな?途中まで読んで放置していたのだが、最近やっと読み終えた。

 

 

本の副題になっている「クリティカルシンキング」 は、科学哲学の研究分野の一つで、本書では「他人の主張を鵜呑みにすることなく、吟味し評価するための方法論」と定義されている(「はじめに」piii)。いろんな科学技術についての議論例を見ながら、CTの手法を学ぼう、というのがこの本の主旨。

 

科学技術に関する10のトピックについて擁護派と反対派の議論例が紹介されているのだけれど、その議論がまずとても興味深かった。例えばユニット3の「喫煙を認めるか否か」。まあ喫煙なんて百害あって一利なしで、喫煙によってさまざまな疾患にかかる確率が大きく上昇することは統計的にも明確に示されているわけだし、擁護派に説得力のある議論なんてできるわけないと思うじゃないですか?でも本書では、まず「喫煙は健康に害をもたらす」と結論づけているデータの取得方法、解析方法の不正確さをまず議論。そして「責任能力のある人については他人に危害を加えない限りは基本的に何をするのも本人の自由」という「自由主義」が日本社会の基本であると確認したのち、同様に害があることが指摘されているが喫煙よりも社会的に受け入れられている(と見られる)アルコール摂取と比較することにより、「喫煙者バッシングは他人の自由の不当な侵害」と主張して、一読、かなりの説得力を持たせている。まあこの議論に説得力を覚えてしまうのは多分私のナイーブさの現れなんだろうけれど、でもトピックがなんであれこういう議論ができるんだなと気付いて、それで、科学倫理に関する担当講義でニセ科学擁護派vs反対派のディベートをしてみようかなと思ったんだよな。

 

とりあげられている10の科学技術は、血液型占いのように一般にニセ科学とみなされているものから、遺伝子組み換えや地震予知のようなトランスサイエンスまで幅広い。それぞれのトピックについてまず概要が説明されていて、そこを読むだけでも結構勉強になる。それに続く擁護派vs反対派の議論については、「どちらが正解か」という答えはなくて、どちらの議論がより説得力があるか、また説得力がないとしたらそれはなぜかというディスカッションがまず促され、でそのあと議論の妥当さを評価するための考え方、すなわちCTのスキルが紹介されるという構成。ここらへんは一通り読んだだけでちゃんと自分で考えていないので、再度、というか、何度か読む必要があるな・・・。

 

大学などの授業のテキストとしての利用も想定されていて、その場合にはこういう使い方ができますよと「はじめに」には書いてあるのだけれど、具体的な利用法が私にはちょっとイメージできなかった・・・。ので、自分の講義では、まず本書のいずれかのトピックの記事を議論例として学生さんに読んでもらって、あとはここで紹介されているCTの考え方をいくつか紹介して、じゃあ実際に擁護派vs反対派で議論してみましょうという流れにしようと考えている。本書を何度か読んでみたら、また他の活用法も見えてくるかもしれないな。

『海外で研究者になる』を読んだ

ツイッターで見かけて興味を惹かれ、購入。

 

海外で研究者になる-就活と仕事事情 (中公新書)

海外で研究者になる-就活と仕事事情 (中公新書)

 

 

確か、奈良先端大のときからの知り合いで、現在は中国科学院・上海ストレスバイオロジーセンターでグループリーダーをなさっている河野洋治さんのツイートでこの本を知ったんじゃないかな?

 

著者である増田直紀さんは、東大工学部の助教・准教授を経て、イギリスの大学でジョブを得られた研究者。本書では、著者が就職活動をしていたときの経験とともに、海外でジョブを得た日本人研究者17人へのインタビューをもとにして、海外のアカデミアでジョブを得るにはどうすればよいか、海外のアカデミアは日本とはどう違うのかが詳しく紹介されている。本書のメインターゲットはおそらく「海外で働きたい若手研究者」なのだろうけど、カバーレターの書き方なんか、日本国内のアカデミアでジョブを得たい人にもすごく参考になると思う。私が就活をしていたときは、海外のジョブには応募しなかったけれど、国内でも英語ができる人を対象とした職で、履歴書やら研究経歴、teaching statementを英語で書かないといけないことがあった。そのときにこんな本があったらすごく助かっただろうな・・・。

 

インタビューされていた研究者17人は、分野や性別、就職した国がとても多様で、女性研究者の比率もかなり高い。夫婦で同じ大学にジョブを得たカップルの話もあったり、著者は人探しにかなりの労力を割かれたのではないかなあ。そのうちの一人が上にも書いた河野洋治さんなのだが、河野さんのインタビューでは、私も関わっていた奈良先端大の植物グローバル教育プロジェクトの話がちょっと出てきて感動してしまった。河野さんありがとうございます!

  

本書の後半は海外アカデミア組織についての紹介で、授業負担、休暇、交付金の有無や研究費の状況、お給料のことなんかについてもかなり詳しく書かれている。「海外でジョブを得る研究者」というと、私的には「サイエンスも地位もお金も」という感じの人を思い浮かべてしまうのだが、グアテマラの大学に就職したマヤ文明の古人骨の研究者では、グアテマラの大学はお給料も安く自由に使える研究費もなく、唯一のメリットが「研究対象と近いこと」だそうで、いろんな人がいるのね・・・と思った。また、場所にもよるけれど、海外は基本的に組織運営に関わる幹部の権力が非常に強く、いろんなことがトップダウンで決まるという話もとても興味深かった。幹部が暴走すると止められないという大きな欠点はあるものの、教員にとっては会議が少ないことはとても大きなメリットになる。日本も上の権限を強めてトップダウン型にしたいらしいけど、今のところほんと中途半端で、教員の負担はむしろ増える一方なんだよね。やるなら徹底的にやって、ついでに事務の数も増やして教員の雑用を減らしてほしいよ・・・。大学幹部の方、お役所の方々にもぜひこの本を読んでいただきたいな。

『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』を読んだ

マツコの知らない世界」やNHKの番組にも出演し、これからますますのご活躍が期待される武蔵大学准教授北村紗衣先生のご著書。ツイッターで話題になっていたのが気になって、東京に帰省したときに丸善で探して買った。

 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 

 

この本を読んで気づいたのだが、本やら漫画やらゲームやらに対する私の「好き」「嫌い」の判断には、ジェンダーの扱いが政治的に正しいかどうかというのが一つの大きな基準になっていたんだな。そしてこれまでジェンダーが政治的に正しく扱われていない本や漫画を読んで、嫌な思いをしたり違和感を覚えたときに、その違和感を押さえつけて我慢していたんだな。さらに、違和感を覚えたり嫌な思いになったとき、その気持を押さえつけたり我慢したりする必要は実は全然なくて、その作品に対する自分の低評価も決して間違ったものではなかったのだな。

 

例えば私、このブログでも何回か書いているように、グレッグ・イーガンSF小説がとても好きなのだが、ジェンダーという視点で見てみると、イーガンの小説には非常に優秀な女性研究者、技術者がよく出てくるんですよね。ついこの前読んだ『宇宙消失』でも、主人公の警備員ニックに対して量子力学の講釈をするのは中国人女性の錘玻蔡(チュン・ポークウイ)だったし、『順列都市』で人工宇宙、オートヴァース構築の鍵となる系を発見したのはソフトウェア・デザイナーのマリア。ただ優秀なだけじゃなくて、みんな強くて自立していて、主要男性キャラクターと対等な関係を築いている。間違っても、ちょっと前のハリウッド映画によく出てきた女性キャラクターのように、男性の冒険に勝手についてきて邪魔をするようなことはしない。そういえばテッド・チャンの『あなたの人生の物語』もジェフ・ヴァンダミアのサザーン・リーチシリーズも女性研究者が主人公だったし、アンディ・ウィアーの『火星の人』は女性が船長だったな・・・。

 

上に挙げたSF小説はいずれも最近書かれたものだけれど、一方、傑作と言われている古典作品を読んで違和感を覚えるという経験は、そう言われてみればこれまでにも多々あった。本書でも紹介されている『素晴らしき新世界』もそうだったし、私が最近読んだ中ではハーラン・エリスンがひどかった。「女は一発殴っておけば言うことを聞く」という、完全に前時代的(と言いつつ今の日本社会にもまだまだ根強く残っている)マッチョな思想が全体を貫いていて、特に『世界の中心で愛を叫んだけもの』に収録されている「少年と犬」には吐き気がした・・・。

 

 

「少年と犬」を読んだあとにエリスン絶賛の解説を読んで、「それが正当なものの見方なのかな・・・」とげんなりしたのだったが、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』を読んだ今では、「正当な見方」なんてない、エリスンを読んで気分が悪くなった私の感覚、感想は間違っていないんだと自信を持って言える。価値観は人それぞれなのだから、感想、批評もいろいろあっていいはずなんですよね。

 

これまで好きだと思って接してきた作品の中で、ジェンダーの扱いの正しさがその作品を好きな理由の一つだと気づいたものをもう少し挙げてみる。ゲームだとドラクエ、特に3以降は、キャラクターが男女どちらかから選ぶことができて、しかもみんな平等に戦っている。漫画なら『ゴールデンカムイ』は暴力性は結構高いのだけれど、ジェンダーや民族の扱いが非常に政治的に正しくてとても安心して読める。特に杉本のアシパさんに対する敬意の払い方はとても好き。一巻で、白石がアシパさんのこと、アイヌのことを見下すような発言をするシーンがあるんだけど、それに対して「私は気にしない」「慣れてる」と言ったアシパさんに対し杉本が心の中で「慣れる必要がどこにある」と叫ぶところ、名シーンですよね。「最新刊の杉本とアシパさんとの再会は本当に感動的だったな・・・。

 

 

キロランケが久しぶりに再会したソフィアを見て「めちゃくちゃいい女になったな」って言うところもいいよね。って、なんだか自分の好きなものを語るだけのコーナーになってしまったけれど、「自分が好きなものを好きな理由」が一つ明らかになったことによって「自分が好きなもの」の共通性が見えて来て、あれもこれもという感じで語りたくなってしまうんだよな。

 

ところでこの『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』、サブタイトルに「不真面目な批評家」ってあるんだけど、これは本を売るために戦略的につけた言葉なのかな。私は特にこの本が不真面目だとは感じなかったのだけれど・・・(「爆誕」とかの言葉の使い方は面白いなと思ったけど)。「批評」とか「フェミニズム」という言葉を見て、「なんか難しそう」とか「怖そう」とバリアをはられてしまうのを避けるためなのかな?まあ確かに私も、以前はフェミニズムに対して距離を取っていたなあ・・・。でもちょっとだけかじった今は、フェミニズム男女共同参画の活動は決して女性のためだけのものではなくて、「多様な人々がみんな心地よく暮らせる社会を築く」ということがその本質だと理解している。マッチョな価値観に違和感を抱いている人は男性でもたくさんいるはずで、その違和感は押さえつけなくていいんだよ、人それぞれの自由な見方があっていいんだよというのがこの本のメッセージだと私は理解しました。とりあえずバーレスク観てみたい。

『耳鼻削ぎの日本史』を読んだ

明治大学教授で日本中世史の専門家である清水さんの著書。以前本屋で見かけて買ったのかな?高野秀行さんとの読書談義は二冊とも読んでいるのだけれど、清水さんご自身の著書を読むのは初めて。

 

耳鼻削ぎの日本史 (文春学藝ライブラリー)

耳鼻削ぎの日本史 (文春学藝ライブラリー)

 

 

「耳・鼻を削ぐ」って、今の感覚だと「酸鼻を極める」という言葉を使いたくなってしまうほど残虐かつ野蛮な行為のように感じるんだけど、実は中世日本から江戸時代半ばまで、割と一般的な刑罰として執行されていたらしい。また戦国時代には、刑罰としての執行に加え、討ち取った首の代わり、つまり戦功の証として「耳・鼻」を削いで持ち帰るということも広く行われていたそうな。その「耳鼻削ぎ」という行為について、いくつもの歴史史料を見ていくと、現代の私たちとは全く違う、中世の日本人の生活や価値観が見えてくる。以前、とあるタンパク質についての総説を書くためにそのタンパク質研究の初期の論文を読み漁ったことがあるのだけれど、多数の論文から当時の研究の流れを再構築していくという過程が、大変だったけれど面白くて、本書を読みながらそれを思い出した。

 

戦国時代の耳鼻削ぎの例としては、豊臣秀吉朝鮮出兵を行ったときの話が詳しく紹介されていて、その規模の大きさ、凄惨さに唖然とし、重い気分になった。そういえば昔(大学院生だった頃・・・?)、当時博多に住んでいた祖母と祖母の友人と三人で釜山に旅行に行ったことがあって、現地のガイドさん・運転手さんつきおまかせツアーだったんだけど、観光場所の一つが秀吉軍ゆかりの公園だったんだよな。かなり昔のことなので実際にどこに行ったのかも覚えていないし*1、全体的に記憶が定かでないのだが、「秀吉軍を撃退した」というようなことを得意気に話すガイドさんの前で私も祖母も祖母の友人もみんな戸惑ったことは覚えている。そのときは、観光客である私たちにそれ言う・・・?と、不愉快さすら覚えてしまったのだが、この本を読んで、韓国の歴史における秀吉軍侵略の重大さ、その撃退を誇るガイドさんの気持ちがやっと少しわかったような気になった。中高の歴史の授業では李舜臣の名前くらいは出てくるけど、秀吉軍が朝鮮の人たちに対してどれほどひどいことをしたのか、その具体的な話は出てこないものね・・・。

 

しかし本書の面白さは、高野秀行さんの解説ですべて言い尽くされているので、それ以上何を言っても無駄な感じはあるな・・・。本編だけでも面白いのに高野さんの解説がまた面白くて、最後まですごい贅沢な本だ!と興奮してしまった。まあただ一点、難があるとすればやはり「痛い」という一言につきますかね。「耳鼻削ぎ」という字面からしてすでに痛いのに、途中関連する絵や写真史料なども挟まれていて想像を煽られるのがつらい。さらに文庫版補講の「中世社会のシンボリズム ー爪と指ー」!これはつらかった・・・。「耳・鼻を削ぐ」という行為は確かに残虐・凄惨なんだけど、現代日本社会を生きているとほとんど縁がないというか、それこそ本書にも出てくる『耳なし芳一』のお話で「耳を削ぐ」という行為に触れるくらいじゃないですか?一方指は、小さい頃にヤクザの方が不始末を起こしたり組から抜けるときは指詰めをするっていう話を聞いてそれこそ想像するだけでトラウマになるレベルの恐怖だったし(まあ実際にそういう方にお会いしたことはないんだけど)、事故でドアに挟んで取れちゃったなんて怖い話も聞いたことあるし、「耳・鼻」に比べると身近で、それ故に描写を読んだときの想像がリアル・・・。いやもう想像するだに痛いのでこれ以上の検証は避けますが、この補講は本編よりもさらに痛さ満載で、結構スピード上げてすっ飛ばし気味で読んでしまった・・・。

*1:「釜山 公園 秀吉」でググるといくつかの候補が出てきて、中でも「龍頭山公園」というのがそれっぽくはあるのだが、日本語のページを見ると「秀吉を撃退した場所」というよりも「秀吉を撃退した李舜臣の像がある場所」という感じで書かれていて、記憶にあるガイドさんの説明と一致しないのでやっぱりよくわからない。

『宇宙消失』を読んだ

グレッグ・イーガンの長編はまだこれで3冊目なんだけど、毎回予期していなかった場所に連れて行かれてそこからさらにぶんぶん振り回されるような気分になる。結構疲れてしまうので、読み始めるときはちょっと気合が必要なんだけど、久しぶりに違う世界にふっとばされる感が味わいたいなと思って読んだのがこれ。

 

宇宙消失 (創元SF文庫)

宇宙消失 (創元SF文庫)

 

 

いやー、今回もすごかったですね・・・。太陽系外のなにものかによって太陽系全体が暗黒の球体<バブル>に覆われてしまい、太陽系外の星は地球から全く見ることができなくなった近未来のお話・・・っていう設定だけでもすごいのに、ストーリーの中盤くらいで、量子力学の観測者問題が<バブル>形成の理由ではないかとの仮説が提示されたときには、電車の中で「ええええーーーー」と声が出そうになって前のめりになったくらい驚いた。量子力学って、電子なんかのめちゃくちゃミクロな粒子のふるまいを明らかにする学問ですけど、それが想像するだに気が遠くなるような宇宙のマクロの話につながっちゃいます・・・?それつなげちゃいます・・・?いやすごいよ・・・(語彙力)。

 

ただ、その後の展開のぶんぶん振り回される度合いは、期待していたそれとはちょっと違ったかな・・・?何しろこの前に読んだ『順列都市』の終盤が、予想をはるかに超えて、頭がぐるぐるしてしまうくらいのとんでもない展開だったので、今回も同様、時間も空間も軽く超えてしまうようなぶっ飛んだ展開を期待していたのですよね。なにしろ設定が設定だけに、これ最後主人公が太陽系外まで行っちゃうやつでは・・・?そしてバブルメーカーと対峙するのでは・・・?とわくわくしながら読み進めていたのだけれど、バブルの実体もバブルメーカーの正体も明らかにされないまま話が終わってしまったのはちょっとびっくりした。あと、「奈落の子ら」がもっとストーリーに絡んでくるのかなと思ってたんだけどそれもなかったな・・・。まあ予想外の展開だったのはいつもどおりで、むしろ読者の期待を外してこそのイーガン、とも言える・・・ってまだイーガン全部読んだわけでもないくせに偉そうだけど。次は『バーナード嬢』の神林が「前半しばらく何の話してるのか全然わからない」と言っていた『ディアスポラ』読もうかな・・・。

『ロバート・フック』『ニュートンに消された男 ロバート・フック』を読んだ

前回から随分間が空いてしまった・・・。やっとちょっと余裕が出てきたので更新。

 

確かまだ7月中だったけれど、ロバート・フックに関する本を立て続けに二冊読んだ。

 

ロバート・フック

ロバート・フック

 

 

ニュートンに消された男 ロバート・フック (角川ソフィア文庫)

ニュートンに消された男 ロバート・フック (角川ソフィア文庫)

 

 

一冊目は、昨年梅田のジュンク堂をうろうろしていて偶然見つけて購入。二冊目も、今年に入って天王寺の本屋をうろうろしていたときに見つけ、ちょうど一冊目を読んでいる途中だったか読み終わった頃かで、これも読むしかないと思って買ったんだったかな。一冊目の『ロバート・フック』は初版1999年3月1日、二冊目の『ニュートンに消された男』は、文庫本が出たのは昨年12月だけれど、オリジナルの単行本が出たのは1996年らしいから、割と似たような時期に出版されていたのね。

 

この二冊の主人公のロバート・フックは、17世紀後半のイギリスの科学者で、バネについての「フックの法則」で知られており、また「Cell(細胞)」の発見者・名付け親でもある。物理と生物というかなり異なる分野で名前を残していることからもその天才は明らかなのだが、なぜか知名度はあまり高くない。肖像画が残っていないこともあり、同時代人のみんな大好きニュートンと比べると明らかに影が薄い。なぜそれほどまでにロバート・フックの知名度、評価は低いのか?そしてロバート・フックとはどんな人物だったのか?ということに迫ったのがこの二冊。

 

二冊とも、立ち位置としては同じくフック擁護で、フックがいかに優れた科学者であったか、また交友関係も広く周囲に信頼される魅力的な人物であったかを、資料をもとに解説している。「なぜそれほどにロバート・フックの知名度・評価は低いのか?」という問に対する答えは両者とも「ニュートンが故意にフックの功績を抹消しようとしたから」。1635年生まれのフックは、1642年生まれのニュートンが科学界に現れたときにはすでに王立協会のメンバーとしてイギリス科学界の中心にいた。フックは、実験科学の立場から、理論科学を基盤とするニュートンの学説のいくつかを厳しく批判し、それがもとで二人は互いに反目し合う関係となる。フックがその死後、しばらく世の中から忘れ去られていたのは、フックの死後に権力を持ったニュートンが、フックの業績を積極的に排除したためではないか、というのが二冊の結論だ。

 

また、リチャード・ウォラーがフックの死後に執筆し出版したフックの伝記には、フックは「ただただ卑しく」「憂鬱症で、疑い深く、妬み深い」(『ニュートンに消された男』p134)という散々な書き方がされていて、これまではそれが一般的な「フック像」として認識されていたらしいのだけれど、この二冊はその人物像に対しても反対の立場を取っている。つまり、ウォラーの伝記はフックに対してマイナス感情を抱いていたニュートンの影響を強く受けたもので、たしかに晩年、病気を抱え、親類にも先立たれたフックには気難しい面もあったかもしれないけれど、人生の大半においてはフックは広い交友関係を持ち、皆に信頼される魅力的な人物であった、と。

 

かくいう私も、この本を手にとったのはニュートンへの興味からなんですよね。以前にも書いたように「アイザック・ニュートンがなぜ後年錬金術にのめり込んだのか」ということについて興味を持っていて、その疑問について自分なりの答えを得るために、その時代の社会、科学界の空気みたいなのものをもっと知りたいと思っている。一冊目の『ロバート・フック』も、帯の背表紙部分に「ニュートンの影になった男」というフレーズが書かれていたから手に取ったんだと思う。フックについては、まさに「フックの法則、細胞の名付け親」、それに加えるとしても「『ミクログラフィア』の著者」以上の知識はなかったんだが、この二冊を読んでまんまと「フックすげえ」となった。

 

一冊目の作者についてはどういう職業の人なのか、全く説明がないのだけれど、いかにも学術論文的な、「資料から読み取れる事実を淡々と記載していく」感じの文章で、エンターテインメント性は薄い。訳もかなり「直訳」感があるので、途中は結構読み飛ばしてしまった・・・。引用文献や索引がしっかりしているので、二次資料としてはとても使えそう。

 

一方二冊目は、科学史研究者によるロバート・フック評伝で、大佛次郎賞を受賞しただけあって読み物としてとてもおもしろかった。フック自身の業績や、ニュートンに対するフックの批判の妥当性についても、もともと物理学専攻の下地を生かして踏み込んで検証しているし、フックの死後その業績がしばらく忘れ去られていたことについては、「王立協会移転の際に、フックの肖像画やフックが作った実験装置など、フックにまつわるものをニュートンが廃棄したのではないか?」と、かなりセンセーショナルな憶測をしている。まあニュートンの性格の悪さは有名だし、さもありなんとは思っちゃいますよね・・・。もちろんニュートンの意地の悪さだけではなく、ニュートンが基盤を置いていた理論科学に対して、フックが依って立っていた実験科学は軽視される傾向にあるということもちゃんと議論していて説得力がある。文庫サイズで読みやすいのもよかった。