『どうすれば「人」を創れるか』を読んだ

9月の学会シーズンが終わった。今年は2週連続で2つの違う学会に参加したので、体力のない私は随分と疲れた。しかし何はともあれ終わったので、そろそろ9月に読んだ本の感想を書いておかねば。というわけでまずはこれ。

 

どうすれば「人」を創れるか―アンドロイドになった私

どうすれば「人」を創れるか―アンドロイドになった私

 

 

近所の図書館で見かけたのを借りてみたのだが、もう7年も前の本なのね。私が借りたのは単行本だけれど、今は文庫版が出ているらしい。

 

 

私が石黒先生のことを初めて知ったのは、石黒先生と石黒先生が作られた自分そっくりのロボット、ジェミノイドHIが2014年にScience誌の表紙を飾ったときのことだった。

 

About the Cover — October 10, 2014, 346 (6206) | Science

 

残念ながらこのサイトは埋め込み式にリンクを貼ることができないようなのだけれど、いやこのカバーの衝撃は大きかった。だって、そっくりの容貌をした二人の男性ーしかも眉間にしわが寄った不機嫌そうな顔をした強面で、うっすら色のついた眼鏡をかけていて黒づくめの服を来た強烈な容姿の男性ーが並んで写真に写ってるんですよ・・・。なにこれ、ってなるよね。

 

私が石黒先生とその研究のことを知ったのはそういうわけで2014年だったのだが、この本(2011年出版)によるとジェミノイドHI-1を使ってフィールド実験を行ったのが2009年とのことだから、Scienceのカバーを飾る5年以上前にこのジェミノイドはすでに誕生していたということになる。サイエンスの片隅に身を置きつつも相変わらずサイエンスの最前線に疎いことよ・・・。

 

で、本書だが、石黒先生がジェミノイド開発に携わることになった経緯、石黒先生そっくりのジェミノイドHIと、女性をモデルとし、HIよりも表情のバラエティをつけることに重点が置かれたジェミノイドFの開発経緯、そしてそれらジェミノイドを用いて行われた数々の実験から得られた、人の感覚、自己認識とはどのようなものかについての石黒先生の考察が主体となっている。ちなみに、この本では「ロボット」「アンドロイド」などの語彙が出てくるが、それぞれの定義は以下の通りであるらしい。

 

センサで知覚し、コンピュータで判断し、モータなどのアクチュエータで動作するもの全てをロボットと呼ぶ。その意味では、エアコンや携帯電話も一種のロボットと見なしてよい。そのロボットの中で、頭や手足を持ち、明らかに人間ではないが、人間のような身体を持つものをヒューマノイド(人間型ロボット)と呼ぶ。そのヒューマノイドの中で、人間そっくりの見かけを持つものをアンドロイド(人間酷似型ロボット)と呼ぶ。ジェミノイドはこのアンドロイドの一種である。(p28-29)

 

関係ないけどこの「センサ」とか「コンピュータ」とか、最後伸ばす音を記述しない書き方、森博嗣っぽいよね。工学系の人はそうなのかな?

 

本のことに戻ると、石黒先生のこの研究が面白いのは、一見「ロボットを作る」という工学研究なのだが、「人の感覚、自己認識とはどのようなものかについての石黒先生の考察」と上にも書いた通り、実際にジェミノイドを作る過程、そしてジェミノイドを使って石黒先生が行われた研究は、認知科学脳科学、哲学と深く結びついているのだ。私が特に興味を惹かれたのが、モデルとなった女性が完成したジェミノイドFを見たときの話。ジェミノイドFは、骨格から顔貌から、正確にモデルを再現して作られているはずなのだが、完成したジェミノイドFを見たモデルの方は、「自分よりもきれいで透明感がある」と感じたというのだ。「透明感」の原因として、シリコンの皮膚が人間の皮膚よりもきれいで小じわがないことに加え、アンドロイドにはどこか「純粋無垢さ」を感じさせるところがある、というのが石黒先生の考察だ。

 

これを読んで思い出したのが、人間の顔について私自身が以前から考えていたこと。私、常日頃から、若い人の顔ってつるんとしていてあんまり強い個性がないよなあ、一方歳を取ってくるとだんだんその人の個性が強く出て来るなあ、と思っていて、歳を取ってくると若いアイドルグループが個体識別できなくなってくるのはこのせいじゃないかと考えているのだが、じゃあ若い人と歳を取ってきた人の違いはどこにあるのかというとやっぱり見た目なわけで、歳を取ってくるといろんな苦労もするわけだし、そういう苦労やらストレスやらが顔のしわなどにも反映され、またその人の噛み癖や姿勢の癖なども加わって外見の変化を生み出しているんじゃないか、そしてその外見の変化がすなわち個性なんじゃないかと考えていたのだ。

 

一方で、このジェミノイドFは、小じわまでは再現されていないとしても、それ以外は全てモデルさんとそっくりになるように作られているわけで、そうだとすると個性や透明感の喪失は外見以外のところ、例えば表情から感じ取られるものなのだろうか?あるいは小じわとか皮膚の凹凸とか、そういう微妙な見た目が結構効いてくるのかな・・・。まあ恐らく、そういうもの全てが総合的に「個性」を作っている、というのが答えなのだろうな。

 

それからどこに書かれていたか忘れてしまったのだが、ジェミノイドを遠隔操作する際に、多数の人でがやがやしているようなところにジェミノイドが置かれていると、ジェミノイドからちょっと離れたところにいる人の会話を聞き取ることが難しい、というような記述があって、それもとても興味深かった。もう亡くなった私の父方の祖母はかなり早くから耳が遠くなったのだが、補聴器を買ってもそれをつけることを嫌がった。通常人間は聞きたい音にだけ集中する、聞きたくないときはノイズをシャットアウトするということができるのだが、補聴器をつけるとそれができなくなって、全ての音が耳に入ってきてとてもうるさいのだそうだ。祖母の場合は、歳を取ってくるにつれて脳の機能も衰えていって、それが「聞きたい音だけに集中する」ことを妨げている、という考え方もできるが、このジェミノイドの実験例と合わせて考えると、やはり脳だけでなく耳本来の機能も作用していると考えざるを得ない。そういうことって耳の研究である程度わかっていたりするのかな・・・?

 

そんな感じでいろんなことを考えさせられる、非常に面白い本だったのだが、やはりこの研究、この本の面白さの大きな部分が石黒先生のキャラクターに依っていますよね・・・。その強烈なキャラクターが強く感じられるのが、最後のほうで触れられる、ジェミノイド制作後しばらくして石黒先生自身が歳を取ってきて、ジェミノイドとの間に見た目のギャップができてきたときのエピソード。ジェミノイドを作り直すよりも自分が変わったほうが安く済むとの考えから、ジェミノイドの見た目に自分をあわせるべくダイエットに励み、美容整形でシミを取ったりヒアルロン酸注射をして顔のたるみを取ったりなさったそうなのだ。このエピソードが至極真面目に書いてあるのだが、いやかなり笑いました。そこまでするか、って思うよね。素敵。尊敬します。

『2』を読んだ

 

2 (メディアワークス文庫)

2 (メディアワークス文庫)

 

 

いや予想を上回る衝撃でした。感想なんて何を書けばよいのやら。

 

『2』もこれまでの5部作と同様、一人称で語られる物語。主人公は役者志望の若者、数多一人(あまたかずひと)。カリスマ的人気劇団「パンドラ」の厳しい入団審査を乗り越え、無事劇団員としてスタートを切るが、その直後、異例の新人テストを受けに来た女性によってパンドラは解散に追い込まれる。そして数多はその女性に誘われて、一緒に映画を作ることになる・・・。

 

と、ここまで書けば多分5部作を読んだ人はこの女性が誰なのかはすぐわかるはず。というか、5部作を読んだ時点で『2』の主題が何なのか、誰が中心となる物語なのかは自ずと明らかなのだ。そして恐らく5部作のストーリーがこの『2』に絡んでくるのだろうな、と、5部作を読んだ人間には誰でもわかる。わかるのだが、そのつながり方がなんというかもう想像をはるかに超えるレベルなのだ。ラノベという形態、登場人物同士の戯画化された会話に騙されそうになるけれど、野崎まど、はっきり言って天才でしょこの人・・・。というか、5部作に連なるこんな本を書いてしまって、この後この人何を書くんだろう、どうするんだろう・・・と読み終わってしばらく呆然としてしまったくらいなのだが、そんな心配は全く凡人のもので、野崎まど自身はその後も作品を発表し続けているので、やっぱり天才としか言いようがない・・・。

 

ところで、これまでの5部作では「ここからが佳境!」というところで一旦本を閉じて一息つくことが多かった私だが、本作ではそんなことはなく大興奮しながら最後まで読み切った。「ここからが佳境!」というところで一旦本を閉じるという行為について、この前の感想では「戯画化された読みやすい文章でつるつる読み進めてしまうのだが、その調子で野崎まどの世界にはまり込んでそのまま最後まで突っ切ってしまうといきなり現れる闇に飲み込まれそうになるから、あえて一度その世界から抜け出ようとしているのかもしれない。」と分析していたのだが、今から思えば、5部作は全てかなり短い物語で、一方佳境が訪れるのはもうかなり最後、残りページ数が少なくなってきたところだから、ここで全部読み切ってしまうのが勿体ないという心理も大きく働いていたのかもしれない。あるいはこれまでの5部作それぞれの本の2倍以上の長さがある『2』では、一旦佳境を迎えてもまだまだ謎が多く残されていて、その謎が全部明らかになっていないのに途中でやめることなんてできなかったのかもしれない。

 

とにかく、読み終わってしばらく呆然としてしまうくらいのすごい小説だった。もう一度読んでしまった以上、知らなかった頃に戻ってもう一度この衝撃を味わうことはできないのだなあ・・・。

『錬金術大全』を読んだ

かのアイザック・ニュートンが、後年、錬金術に入れ込んでいたというエピソードを知って以来、錬金術には興味を持っていた。現代では全く否定されている研究分野だけれど、あのニュートンが入れ込むくらいだから何らかの科学的正当性があったのではないかと思ったのだ。ただ実際には錬金術について調べたりすることなくこれまで来てしまったのだが、最近読んでいるミシェル・モランジェ『生物科学の歴史』に錬金術についての記載が出て来て、今こそ調べなければ、と思った次第。で、昨日近所の図書館でこの本を借りてきた。

 

錬金術大全

錬金術大全

 

 

B5サイズで手に取りやすく、図版もたくさん含まれていてすぐ読める分量。その中に、錬金術の歴史(第一章)、13世紀から16世紀にかけての主な錬金術師たち(第二章)、錬金術の実践(第三章)、錬金術論文における言葉遣い(第四章)がそれぞれコンパクトに紹介されている。さらに巻末に索引、主な錬金術文献のリスト、錬金術用語解説がついており、これ一冊で錬金術の概要を見渡せる、お得な本だ。ちなみに著者はエクセター大学英米研究学部の教授で、訳者は日大商学部の教授(だけどググっても日大のサイトがひっかかってこないところを見ると、もう退職されているっぽい。ちなみに著者ももう亡くなられているらしい)。

 

錬金術の起源と歴史を紹介する第一章を読むと、錬金術キリスト教といかに深く結びついていたかということがわかる。曰く、神の天地創造自体が、「分離」によって光と闇、天と地を作り出す錬金術的な行為であったと認識されており、そして聖書に出てくる人物たちの中では、アダム、ノア、モーゼ、ダヴィデ、ソロモンなどが、錬金術を習得していると伝えられていたそうだ。後年の錬金術は「はるかな昔から時代を経て断片化され不確かになり不完全になってしまった知識を回復しようとする試み(p12)」であり、ある観点から見ると、神の領域に近付こうとする不遜な行いでもあったらしい。一方で、錬金術が宗教と深く結びついていたという事実は、第三章で述べられている錬金術の実践における精神性の強さとよく合致する。

 

第三章ではまず、錬金術のもとになるのがアリストテレス以来信じられてきた当時の元素についての考え方であったことが説明される。すなわち火、水、空気、土の4つが最小成分としての「元素」であり、世の中の全ての物質はこれら元素が比率を変えて組み合わさったものである。また元素は熱、寒、湿、乾という4つの特性の組み合わせから構成されており(ここ、p69には「熱、湿、冷、寒」と書いてあるのだが、後の記述を見るとどう考えても間違いだろう)、火は熱と乾、空気は熱と湿、水は寒と湿、土は寒と乾から成っている。さらにこれらの元素は相互に変容できるものであり、その変容は円環をなして行われる、というのが大体の基本。

 

また、大気の中に存在する蒸気は湿と寒の性質を持っており、熱と乾の性質を持つ大地由来の発散物を含んでいる(この文章、p75の文章をわかりやすく書いたつもりだけどあんまり意味が取れないな・・・)。このような発散物は地中にも存在し、それが鉱物の元である。さらに、湿性の発散物を水銀、乾性の発散物を硫黄として、その2つがさまざまな程度や比率で結びついたものが金属であり、水銀と硫黄が適切な比率で混ざりあったものが金であり、金こそが自然界が目標とする完全体である。錫、鉛、銅、鉄などは不完全な金属で、それらから余剰なものや不純なものを取り除き、不足するものを補えば、完全なものすなわち金になる・・・というのが錬金術の基本となる考え方だそうな。

 

で、この完全なるもの金を取り出すことを目指して、錬金術師たちはさまざまな工程を試していたわけだけれど、一方でその工程については一致した意見がなく、作業がうまく行っていることをどのように判断するべきかという伝承があるのみらしい。そのことは、第一章で見たように、錬金術が宗教と深く結びついていたことを考えれば理解できる。錬金術師は聖職者がほとんどであったらしく、また錬金術を行う上で、体の清浄性(女性との肉体関係を持たない)は非常に重要であったそうな。

 

また第四章では錬金術の論文においてどのような言葉遣い、記述が用いられたかが紹介されているが、ほとんどが、修辞やパラドクス、比喩を駆使した非常に分かりづらい論文で、それは「宗教の言葉づかいでは、軽蔑され否認された者は、それゆえにこそ貴いのである(p110)」ということに由来しているらしい。

 

ところでこの本、錬金術師たちは自分たちがやっていることの馬鹿らしさを理解した上で錬金術に取り組んでいたことを感じさせる文章がちらちら出てくるんだけど、本当のところどうだったんだろう。例えば下の文章とか。

 

したがって、錬金術が利用した話法のひとつは古典古代の神話の話法だったのであり、とりわけ十五世紀以降になって著作家たちは、錬金術を古典神話と結びつけるようになったのであった。おそらく字義どおりに解釈するとバカバカしいことになるため、寓意的解釈のほうがもっともらしく思えるようになったのであろう。(p117)

 

それが実態だったとすると、やはりなぜニュートン錬金術に入れ込んだのかはよくわからないんだよな・・・。歳をとってくると宗教にのめり込むようになるのと同じことなのかもしれない。まあ今後も機会があったら他の錬金術関係の本を読んでみよう。

 

ところでアマゾン検索したら出版時期の早い異なる装丁の本があったけれど、改訂版なのかしら?あとがきにはそんなことは書いていなかったから、単に表紙を改訂しただけなのかな。

 

錬金術大全

錬金術大全

  

『舞面真面とお面の女』『パーフェクトフレンド』を読んだ

引き続き、野崎まど5部作。

 

舞面真面とお面の女 (メディアワークス文庫)

舞面真面とお面の女 (メディアワークス文庫)

 

 

実際に読んだ順番は『パーフェクトフレンド』→『舞面真面』なのだが、『パーフェクトフレンド』の終わり方がこれまでの5部作と『2』とのつながりを予感させるものだったので、出版順に感想を書く。

 

『舞面真面』は5部作の2作目にあたる小説。名門東央大学(東大・・・?)の工学部大学院生である舞面真面(まいつらまとも、♂)は、叔父の舞面影面(かげとも)に頼まれて、影面の娘であり従兄弟の水面(みなも)と影面が頼んだ探偵とともに影面の祖父であり真面と水面の曽祖父、一代で「舞面財閥」と呼ばれるほどの事業を起こしつつも早世した舞面彼面(かのも)の遺した謎の言葉「箱を解き 石を解き 面を解け よきものが待っている」の謎解きを託される。同時に残された箱、そして舞面家の近所に残されていた大きな立方体の石を調べていた真面の眼の前に、不思議な獣のお面をかぶった中学生くらいの少女が現れる。この少女は誰なのか、お面の意味は何なのか、そして何より彼面の遺した文章の意味は何なのか?

 

一方の『パーフェクトフレンド』、これまでの4作とはがらりと変わって小学生が主人公。クラス委員の理桜(りざくら)は、転入以来一度も学校に来ていない生徒、さなかの家を訪ねて学校に来るよう説得して欲しいと担任の千里子先生から頼まれる。理桜が友達のややや、柊子とともにさなかが住む吉祥寺の駅前のマンションを訪ねてみると、3人を出迎えたさなかは、中学・高校の学習内容を自分で終え、かつすでにイギリスの大学を卒業して博士号も取得しているという天才少女だった。さなかとは何者なのか?理桜はさなかと友達(パーフェクトフレンド)になれるのか?

 

野崎まど作品の感想は、この記事の前に書いたことに尽きる。『2』に続く5部作、ということを知識を得ているので、どこでつながってくるんだろう、この作品とあの作品はこうつながってくるんじゃないかしら、などと考えながら読んでいたのだが、『パーフェクトフレンド』は最後いきなり直球が来て、まともに衝撃を受けてしまった。いや、途中の登場人物の描写からこれは何か隠しているのだろうと予想はしていたのだが、まさかそう来るとは思っていなかった・・・。『2』ではどんな深淵を見させられるのか、とても怖くてとても楽しみだ。

『死なない生徒殺人事件』『小説家の作り方』を読んだ

野崎まどの『2』を読む前に五部作を読もうシリーズ第二弾。実際には『[映]アムリタ』の次は『舞面真面とお面の女』なのだが、生協で注文したところ最初に届いたのがこちらの『死なない生徒』と『小説家の作り方』だったので先に読んでしまう。

 

死なない生徒殺人事件―識別組子とさまよえる不死 (メディアワークス文庫)

死なない生徒殺人事件―識別組子とさまよえる不死 (メディアワークス文庫)

 
小説家の作り方 (メディアワークス文庫)

小説家の作り方 (メディアワークス文庫)

 

 

『死なない生徒殺人事件』は、幼稚園から高等学校まで、大学以外の教育機関を揃えた名門私立女学校の生物教員となった主人公が、「この学校には死なない生徒がいる」という伝説を聞く。友達ができず、学校に馴染めないという転校生の悩み相談に乗るうち、なぜかその「死なない生徒」の話になり、その会話の途中に職員室に入ってきた女生徒は「自分がその死なない生徒だ」と名乗る。しかしその「死なない生徒」は後日学内で死体で発見された。「死なない生徒」とは何なのか?自分が「死なない生徒だ」と言ったのは、単なる彼女の妄想だったのか・・・?

 

一方の『小説家の作り方』は、まだ駆け出しの作家である主人公が、ファンである少女から「私の頭の中には”この世で一番面白い小説”のアイデアがあるが、私はそれを小説に書き起こすことができない。私に小説の書き方を教えて欲しい」という依頼を受け、少女に「小説の書き方」を教えることになる。絶世の美少女でありながら5万冊の本をこれまでに読んできたと言い、膨大な量の知識を持ちながらも箱入り娘で世の中のことを知らないこの少女の正体は・・・?

 

『小説家の作り方』は、ミステリー・ノベル改め「ノベルス・ミステリー」なのだそうだ(SF的要素もあるので、このブログではSFとミステリ、両方のカテゴリーに入れている)。その違いはよくわからないのだけれど、登場人物同士の会話が非常に戯画化されていて、これがラノベというものなのだろうか?そもそもライトノベルの定義とは・・・?とちょっとググってみたけれど、小説とライトノベルの間に明確な線引があるわけではなく、最も簡単な定義としては「ラノベレーベルから出ている本」ということらしい。

 

しかし基本としては、最初に提示された謎が最後に明らかにされるミステリ仕立ての小説で、かつ、一見無関係に見えた途中のさまざまなエピソードが実はつながっていたことが明らかになる。それと同時に、世界が一気にぐるんとひっくり返されたような、戯画化された世界の裏側に隠れていた闇の世界を見せられたような、ある種の恐怖さえ覚える。それが全体としての野崎まどの作風で、だからして導入部以上のあらすじを公に語ることは許されない。『死なない生徒』なんかも、あの小説のアイデアに似てるな、とか、「・・・」とは・・・とか、いろんなことを考えてしまうテーマなのだが、その感想すらもネタバレにつながってしまうから書けないのだよな・・・。

 

ところで私、ここまで3冊の野崎まど作品を読んできたわけだけれども、最後の謎解き部分に入る前に、いつも一回小説を閉じて一息ついたり他のことをして一回頭を切り替える、という行動を取ることに気がついた。意識的にやっているわけではないのだが、野崎まどの小説を読むときは毎回そうなのだ。戯画化された読みやすい文章でつるつる読み進めてしまうのだが、その調子で野崎まどの世界にはまり込んでそのまま最後まで突っ切ってしまうといきなり現れる闇に飲み込まれそうになるから、あえて一度その世界から抜け出ようとしているのかもしれない。それくらいパワフルな小説だ。

『ムカシ✕ムカシ』『サイタ✕サイタ』『ダマシ✕ダマシ』を読んだ

お盆休み中に図書館で借りた『ムカシ✕ムカシ』『サイタ✕サイタ』を読んだら、続きが気になって我慢できなくなり、最新作にしてXシリーズ最終作の『ダマシ✕ダマシ』(出版は昨年なのだが、近所の図書館にはまだ入っていないらしかったので借りられなかったのだ)はKindleで買って読んだ。

 

ムカシ×ムカシ REMINISCENCE (講談社文庫)

ムカシ×ムカシ REMINISCENCE (講談社文庫)

 
サイタ×サイタ EXPLOSIVE (講談社文庫)

サイタ×サイタ EXPLOSIVE (講談社文庫)

 
ダマシ×ダマシ (講談社ノベルス)

ダマシ×ダマシ (講談社ノベルス)

 

 

読み終わってもう一週間だけれど、未だに思い出すと「よかったな・・・」と少々ぼうっとしてしまう。それくらい、じんわり心に残るシリーズだった。これまでのS&MシリーズもVシリーズも四季シリーズも、読み終わったときの満足感はもちろんあったのだけれど、こんなに嬉しいような寂しいようなずっと浸っていたいような気分になったのはこのXシリーズが初めてだ。前回、Xシリーズ最初の三作を読んだときの感想に「森博嗣のミステリは、あまりにつるつる読んでしまうのでなんだかコストパフォーマンスが悪いような気がしてしまう」と書いたように、これまでの私の森博嗣作品に対する印象は「楽しく読めてあまり後に残らない」だったのだが、このXシリーズでその印象ががらりと変わってしまった。

 

norikoinada.hatenadiary.jp

  

前回の感想にも書いたけれど、このXシリーズにはいわゆる「名探偵」役の登場人物がいない。理論的にいろんな可能性を探って仮説を立てていく真鍋はその役に近いけれど、いずれの話も最終的にはなんとなくなし崩し的に謎が解決していく感じ。S&Mシリーズ、Vシリーズでは、名探偵役の犀川先生にせよ紅子にせよある意味超人的な天才で、二人とも感情の揺れや生活の悩みなどというものとは無縁のようで、それゆえ読者は登場人物に感情移入することがなく、読んでいて感情を揺さぶられることもない。つまり「つるつる読めてしまって後に残らない」。

 

一方このXシリーズの登場人物は、小川令子にしろ真鍋瞬市にしろ真鍋のガールフレンドの永田にしろ、みんな特にこれと言った人生の目的もなく、若い人たちは自分の可能性を信じつつも特に何かに向かった努力をするわけでもなく、新しいことを始めてもなんとなく自分には違うかなとすぐ止めてしまったりする、いわゆる普通の人たち。傍から見ていると少々もどかしいくらいだけれど、犀川先生や萌絵とは違う、身近にいそうな人たちだ。

 

そして普通の人たちにはそれぞれ悩みや不安や事情がある。メインキャラクターの小川令子は、過去に大事な人を亡くしてその喪失感から未だに立ち直れていないことがシリーズを通して徐々に明らかになる。このXシリーズがその小川令子の再生の物語であるというのは、冬木さんのブログにも書かれていた通り。

 

 

冬木さんのレビューはこちら。

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

 

そしてそういう身近にいそうな人たちの日常の物語を6作のシリーズを通して読むことによって、また日々の付き合いの中でその人の過去やいろんな面を徐々に知っていくように、小川の過去を徐々に知っていくことによって、シリーズの最後では読者はまるで小川や真鍋たちと親しい友人になったかのような気分になる。そしていわゆる一般的なハッピーエンドではないかもしれないけれど全ての登場人物たちがそれぞれ納得できる落とし所を見つけるエンディングに、喜びと寂しさと感じるのだろう。

 

しかし最後の最後に出てくる仕掛けには驚いた。これはもう森博嗣作品、全作揃えて買うしかないですよね・・・。

『[映]アムリタ』を読んだ

この前読んだ『バーナード嬢曰く。』の4巻で、野崎まどの『2』の前に読むべき作品として紹介されていた5部作、その最初の作品がこの『[映]アムリタ』。野崎まどの処女作でもあるのかな?

 

[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)

[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)

 

 

バーナード嬢の神林の説明「役者志望の主人公が天才少女と呼ばれる最原最早の撮る自主映画に出ることになって、で主人公は彼女の描いた絵コンテを目にした途端2日以上ぶっ通しで読み続けてしまう異常な体験をする」「自分に何が起きたのか、最原とは一体何者なのか・・・?」以外の予備知識を持たず、野崎まどが他にどんな小説を書いているのかも知らずに読んだのだが、いやもう衝撃的でした。そして神林が町田さわ子に続きを促されて首を横に振ったように、この小説を読んでしまった者が読まない者にその続きを語ることはどうにも不可能なのだった。

 

途中どんどん怖くなっていくのだけれど、作者についての予備知識を持っていなかったこともあって話がどう帰着するのか全くわからない。ほら、ジェフリー・ディーヴァーの作品なんか、主要な登場人物が結構シビアな怪我をすることはあるけど死ぬことはないからその点安心とか、そういう作風ってあるじゃないですか。初めて読む作家についてはそういう経験値が皆無で、かつ一人称の物語でその語り手である主人公がどんどん深みにはまっていってどうなるかわからないという状況は、読者も主人公とともにどんどん深みにはまっていくしかないわけで、分量的には一気にあっという間に読めてしまうくらいの短さなのだけれど、途中先を読むのが怖くて本を閉じ、他のことを始めてしまったくらいでした。

 

結局5部作と『2』、注文できるものは全部注文したのだけれど(Amazonで見たところ、『パーフェクトフレンド』のみKindle版しか入手できず)、先を読むのが楽しみなような怖いような・・・。