『日本近代科学史』を読んだ

ちょっと前に感動のうちに読み終えていたのだが、最近あまりにやる気がなく、感想文を放置していたこの本。

 

日本近代科学史 (講談社学術文庫)

日本近代科学史 (講談社学術文庫)

 

 

この文庫、出版日がごく最近だったので、本書の終盤で「現代(1970年代)」という記述を見るまで、村上先生のご研究の集大成くらいに思っていた。だってそれくらいすごいんですよこの本・・・。

 

第一章から第六章までは、種子島における鉄砲伝来から現代に至るまでの日本の科学史を見ることによって、中国や西洋から輸入された科学技術が日本にどのように根付いて、日本の科学観をどのように変化させていったのかが丹念に解説されている。そしてそれを元に、日本という国の風土、文化についての村上先生の考察が第七章で述べられているのだが、この考察が「ずばっと斬る」感があってめちゃくちゃかっこいい。改めて「まえがき」を見ると、最後に「1968年盛夏」と記されているから、村上先生32歳のときの作品なんですよね、これ。そんな若さで、

 

それでは、日本人は、ほんとうに、血肉から、科学的*1(少なくとも西欧科学的)になったのであろうか。・・・私の答えは、二重の意味で「否」である。

 

とか書いちゃうんですよ。自分が限界まで研究して思考したという事実に基づく学者としての覚悟なしでこんな風に言い切れないですよ。かっこいい・・・そして我が身を振り返って、学者としての格の歴然たる違いを感じる・・・orz

 

しかし一方で、「科学という観点から日本文化を語る」という壮大な試みには、若手研究者の野心、情熱が感じられるし、上述の文章も、新進気鋭の研究者がこれから学者としてやっていくんだという覚悟の表れなのかもしれない。まあいずれにせよ、本書を読んで、日本科学の歴史を学び、新たな観点から日本文化を見ることに蒙を啓かれた喜びを感じるとともに、一応「学者」「研究者」という身分で生計を立てている我が身を振り返ってしまいましたね・・・*2

 

ところで、上述の通り、日本では西欧的科学観・自然観は生まれず、また未だに西欧的科学観が根付くに至っていない、というのが村上先生の考察(というか一般的な考え方なのか?他の方の著作を読んでいないのでなんとも言えない・・・)なのだが、西欧的科学観・自然観が生まれなかったのは日本だけではなく、中国でも同じことらしい。確かに中国って、あれだけ古くから高度な文化を築いていたのに、どうして科学技術という点で西欧に大きな遅れをとってしまったのか、非常に興味深い謎だよなあ。アマゾンで、「中国 科学史」で検索をかけてみたのだが、それほどたくさんは引っかかってこなかった。中国語ならもっとあるのかしら。それとも資料が膨大だったり、はたまた規制が厳しすぎたりしてなかなか研究できないのかしら・・・。

*1:ここは原文では傍点

*2:と言いつつ今は連休でぼけぼけしている。

『シンドローム』を読んだ

読書漫画『バーナード嬢曰く。』の中のSF好き読書家キャラ、神林しおりが漫画の中で薦めていた『シンドローム』が文庫化されるという情報をツイッターで得て、本屋で探して即購入。

 

シンドローム(キノブックス文庫)

シンドローム(キノブックス文庫)

 

 

神林のお薦めに外れなしとは言え、この『シンドローム』、中学生(・・・と、はっきり書いてなかったような気がする。高校生かもしれない)が主人公の青春SF小説ということで、「青春」の迷いをはるか昔に捨て去った身としては、そこまで楽しめるかどうか少しばかり不安だったのだけれど、全くもって杞憂でしたね・・・。主人公が、森見登美彦(文庫版の解説を書いている)の小説に出てくるような、自分の頭の中だけでぐるぐるぐるぐる考えて行動できないようなこじらせ屁理屈男子で、謎の生命体襲来で町が壊されていく中、同級生のちょっと謎めいた女の子、久保田葉子のことばかり考えている。というか、久保田葉子が気になることを自分では認めずに否定しながらも、傍から見るとやっぱり久保田葉子のことばかり考えている。そのへんのめんどうくささが私としては共感度が高く、一気読みでした。

 

一方、森見の腐れ京大生と違うのは、この主人公がまだ中学生(か、高校生)で、おそらく知能もそこまで高くないこと。だから(だと思うんだけど)、何かを考えるときに主人公は同じ語彙ばかり使う。例えば下の文章のように。

 

いかにも、真相は迷妄にあった。迷妄はぼくの衝動に呼びかけ、ぼくから精神的な人間という虚飾を剥ぎ取り、獣の本性をさらそうとする。卑劣で、そして狡猾でもある迷妄は得意のいつわりをおこなうことで、暗い影の下にも精神的な世界があると言葉たくみにささやくが、事実から言えば、そこには精神的な要素などかけらほどにも転がっていない。ただ、獣じみた非精神的な期待と願望だけが渦巻いていて、ひと一人を隠すだけの大きさもない。平岩のように、迷妄の奴隷になってはならない、とぼくは思った。

 

この文章の中だけでも、「迷妄」が4回、「精神的」が4回使われているのだけど、繰り返し同じ語彙を使った改行の少ない長い文章を読んでいるうちに、読者も主人公の思考に絡め取られていくような気分になる。もう一つ、裏表紙の帯にも抜粋してあるのだけど、この小説の登場人物のセリフには面白い仕掛けが施されていて、それがページをめくったときの驚きとともに強烈に印象に残る。印象に残るだけじゃなく、そのセリフが一つのリズムを生み出していて、それがまた読者を物語の世界に入り込ませる仕掛けになっている。視覚的効果を利用して読者を物語の世界に没入させるという方法、小説にはこんな可能性もあるんだな、と思ってすごく新鮮だった。

 

ところでこの「キノブックス文庫」、今回初めて知ったのだが、新しいレーベル(というのか?)なんだろうか。表紙をめくったときのタイトルページのデザインがとても素敵。同じデザインが、カバーを取った文庫本体の表紙にも使われている。文庫本体の表紙の色はきれいな水色で、これまた印象的。中に「キノブックス文庫編集者かわら版」というちらしが挟まれていて、本書出版までの裏話が書いてあったりするのが新しい。『シンドローム』の裏話としては、「六日目」という章の最後の最後、帰宅した主人公が久保田葉子とメールのやり取りをするシーンで、単行本になる段階で重要な一文が削除されたというエピソードが紹介されている。このシーンでは、主人公が送ったメールに対し久保田葉子が「ーおやすみなさい。」とだけ返信するのだが、草稿の段階では主人公が久保田葉子に送ったメールの文面が書かれていたそうだ。どんな文面だったか読者の皆さんそれぞれ思いを巡らせてみてください、というのがこのかわら版の締めなんだけど、七日目のそっけない終わり方からして、そりゃもうあの一言しかないだろうなと思ってにやにやした。

『破滅の王』を読んだ

先日徘徊していた本屋で見つけ、作家名と帯のあらすじに惹かれて購入。直感通り面白くて一気に読んだ。

 

破滅の王

破滅の王

 

 

「上田早夕里」の名前は、2016年の日本SF傑作選に収録されていた『プテロス』で初めて知った。地球外惑星に住む生物を研究している科学者の話だったのだけれど、そこで描かれていた研究者像にとても共感するものがあり、また、理性的で硬質だけれど、感情に流されまいとぎりぎりのところで踏みとどまっているような温かさも感じる文章もとても好みで、気になっていた作家だった。

 

『プテロス』が未来の空想の世界を描いた物語だったのに対して、本書『破滅の王』の舞台は第二次世界大戦中の上海。私は歴史に詳しくないのでよくわからないのだけど、主人公の勤務先(上海自然科学研究所)が実在していたこと(Wikipediaの「東方文化事業」の項に記述有り)、巻末の主要参考文献リストの充実ぶり、そして物語の中の緻密な記述を見ても、おそらくこの物語のかなりの部分が史実に基づいて構築されているのだろうと予想がつく。

 

また、本書の核となっているのが「細菌を食べる細菌で、治療法皆無の細菌兵器」である非実在のビブリオ菌「キング」なのだが、補注によると「細菌を食べる細菌」自体は1962年にドイツの植物病理学者によって報告されているそうだ。物語では、毒性を持たない元の細菌に、さまざまな方法によって変異を導入して、兵器として開発していく過程が描かれているのだが、その方法というのがまた「戦時下ならそんなことも起こり得たかもしれない」というリアリティに満ちている。そして、そのリアリティが、この物語の骨格を強度の高いものにしている。

 

一方で、リアリティを追求した結果、最後はすっきり全部解決してカタルシスが味わえる・・・というわけには行かず、それが第159回直木賞の候補となりつつも受賞を逃してしまった原因なのかも・・・と思ってしまった(ちなみにこの年、直木賞を受賞したのは島本理生さんの『ファースト・ラヴ』という作品で、レビューなどを読む限りこちらは読み終わったあとすっきり感が味わえそうな小説)。しかし、リアリティを追求すれば確かにこういう終わり方にならざるを得ないだろうな、とも思うし、一般受けではなく自分の信念を貫いてこのような終わり方にしたところ、作家の上田早夕里も主人公の宮本と同様、理想主義の人なのかもしれないな。

 

・・・と、これまでが一般論的としての本書の感想。一方科学者の端くれとしての感想は、ずばり「科学者はみんなこの本を読むべき!」。「戦時下において科学者はどうあるべきか」ということを真正面から問うていて、とても考えさせられるのだ。科学者の倫理を問う作品ということでは、遠藤周作の『海と毒薬』と並ぶんじゃないだろうか・・・って私『海と毒薬』読んだことないんですけど。今度読みます・・・。

 

上海自然科学研究所の連合年会の記録に残されていた「科学者の目標は真理の探求であり、真理は国家を超えるものであるからです」という言葉にいたく共感する主人公宮本は、科学者として、そして人間として正しいと思うことを貫こうとする、理想主義の人間だ。けれども、国と国とが対立している非常事態において、自分の理想を貫こうとする人間は抑圧される。物語を読みながら、「国の利益を優先させるため」と称して人道に背かざるを得ない状況に置かれたとき、科学者はどうするべきか、自分だったらどうするか、宮本のように自分の正義を貫くことができるのか、とずっと考えていた。もちろん、「国の利益を優先させるためと称して人道に背かざるを得ない状況」になんて一生置かれないことを祈るのだけれど、でも将来どうなるかわからないしね・・・。

 

ところで『プテロス』のときも思ったのだけれど、この作者、どうしてこんなに科学者の心理に詳しいんでしょうね。上にも書いた「科学者の目標は真理の探求であり、真理は国家を超えるものであるからです」とか、科学者の端くれとして心に刺さる言葉がたくさん出てくるし、科学者としての宮本の行動パターンも「わかるわかる」と心の中でがくがくうなずきつつ読んでいた。上田早夕里さん、元は科学研究者で、それから作家に転身なさった方なのか?と思って調べたのだが、ウィキペディアにはそれらしいことは書いておらず。

 

ja.wikipedia.org

 

科学者であるかどうかには関係なく、社会の中で科学とはこうあるべきだという理想像、そしてそういう理想を追い求めたいという姿勢が近いということなのかもしれない。

『人生は、楽しんだ者が勝ちだ』を読んだ

日本経済新聞に連載されていた「私の履歴書」に、大幅加筆修正された米沢先生の自伝。

 

 

めちゃくちゃ面白くて一気に読んでしまった。いや米沢先生、ほんとすごい方ですね・・・。お母様から受け継いだ数学の才能に加え、目標に向かって邁進するエネルギー、そして負けん気と行動力。まさにスーパーウーマンで、読んでいてくらくらした・・・。

 

例えば第四章「出世作」最初のエピソード。修士課程で結婚されてその一年半後、証券会社勤務のご主人が、ロンドン大学の大学院に一年間留学なさるのだが、米沢先生は「私も絶対に、イギリスに行く」「誰が一年も待てるか!」(p110)と、イギリスの大学すべての学長宛に「貴校の大学院で物理を勉強したいので、奨学金をいただけませんか」と手紙を書く。二校からOKの返事をもらい、最終的にキール大学というところに留学。留学中は夜中の二時、三時まで図書館で論文を読み、一年の間に受け入れ先の教授との共同研究で二報、加えて独自のテーマで一報、計三報の論文を発表。勉強だけでなく、二週間に一度はロンドンに出て旦那さんと観光を楽しみ、休暇中もヨーロッパ全土を旅行して回る・・・。ここを読んだだけでも、凡人で、かつ昨今体力の衰えが著しい私は、ぐったりしてしまうくらいのエネルギーだ。

 

その後も活躍めざましく、学位取得後は教育大での学振研究員を経て、京大基礎物理学研究所助手、助教授、そして慶応教授として理論物理学の第一線で研究を進められ、その間に三人ものお子さんを生み育てていらっしゃる。米沢先生の旦那さまは、当時としては珍しいほど奥さんの仕事に理解があり、かつ米沢先生の活躍を周りの人にも自慢するくらい応援なさっていた様子だけれど、それでも当時は「イクメン」なんて言葉もなくて、家事は女性がやるのが当たり前の時代。米沢先生ご自身も「私は「家事分担」を巡る争いはしないと決めていた。争う時間と精神的エネルギーが惜しい(p123)」と、一日四時間睡眠で家事育児をすべてこなされたそうな。まあ昔の女性研究者はこれくらいできる人でないと生き残れなかったんでしょうねえ・・・今の時代に産まれてよかった・・・。

 

この前読んだ『複雑系を科学する』『<あいまいさ>を科学する』では、米沢先生がどんな研究をなさっていたのか、詳しいことが触れられておらず残念、と感想に書いたが、本書では米沢先生ご自身の研究についても紹介されていて、そういう意味でも満足でした。「コヒーレント・ポテンシャル近似(CPA)」の理論確立、というのが米沢先生の大きな業績の一つらしい。まあ案の定、難しくて結局よくわかってないんですけどね。

 

修士一年のときに結婚なさってずっと連れ添った旦那さまとは歳をとってもラブラブで、旦那さまが亡くなるときのシーンは感動の一言。才能があってよき伴侶と家族にも恵まれて、って、誰もが羨む素晴らしい人生なのだが、多分米沢先生が一番恵まれていたのは、自分自身で運を掴み取る強さなのだろうなあ、と、本書を読んで思ったのだった。

 

いやはや、米沢先生、ほんとにすごい人でした(語彙力)。お腹いっぱい。すごい人の伝記ってやっぱり面白いですよね。 以前読んだこの本も面白かったなー。

 

なかのとおるの生命科学者の伝記を読む

なかのとおるの生命科学者の伝記を読む

 

 

『複雑さを科学する』『<あいまいさ>を科学する』を読んだ

先日亡くなられた米沢富美子先生の著書。

 

複雑さを科学する (岩波科学ライブラリー)

複雑さを科学する (岩波科学ライブラリー)

 
「あいまいさ」を科学する (双書時代のカルテ)

「あいまいさ」を科学する (双書時代のカルテ)

 

 

米沢先生が書かれた猿橋先生の伝記を読んで、米沢先生ご自身はどんな研究をなさっていたのか知りたくなり、で、とりあえず一般向けのこの二冊を、と図書館で借りて読んだ。

 

『複雑さを科学する』はそのタイトルの通り、「複雑系」の研究分野の紹介。一方『<あいまいさ>を科学する』は、「複雑系」に加えて「あいまいなもの」を科学的に研究するとはどういうことかについて紹介した本で、前半部はファジィ理論についての概説、後半は『複雑さを科学する』とかなりかぶった内容になっている。

 

二冊とも100ページ程度の一般書で、本書を読めば「複雑系」がどんなことを研究する分野なのか、「ファジィ理論」とはどういうものかがなんとなくわかったような気になる・・・のだが、一方で、「一般向けのわかりやすさ」を追求するあまり、研究分野の概観解説に終始している感があったのがちょっと残念。実際にその分野でどういう研究が行われているのかについて具体的なことが書かれていないので、「なんなくわかったような気がする」で終わってしまった(いや、読みやすくてさらさら読んでしまったのであんまり頭に残っていないだけで、改めて読み込めばちゃんと書いてあったのかもしれない・・・)。

 

特に『<あいまいさ>を科学する』は、上にも書いた通り、「前半ファジィ理論、後半複雑系」という感じで、焦点が少しボケている気がしてしまった。理論物理の方だから、多分相当に解説しにくい難しい研究をなさっているのだろうけれど、やっぱりこういう科学系の一般書では、その著者自身の具体的な研究の話を入れるべきじゃないかな・・・と言うのが、この二冊を読んで一番強く感じたことかな。

 

私の持論として、「初心者向けのセミナーや講義をするときは、講演者の人柄が垣間見えるようなエピソードを少し入れると、聞くほうはその講演者を通して講演内容とつながりを感じることができて理解が進む(ような気になる)」というのがあるんだけど、本でも同じことだと思うんですよね。「自分は具体的にこういうことに興味があって、こういう研究をやっている」という内容を含めることによって、読み手は著者の個性に触れることができるし、その研究分野についてもうちょっと踏み込んだ内容を知ることもできる。そしてその著者の研究内容紹介という核ができることによって、概説する各章が有機的なつながりを持ってくるというか。そういう意味で、頁数の限られた一般書であるとしても、米沢先生ご自身の研究内容について、ちょっとだけ踏み込んで紹介していただきたかったな・・・。

 

米沢先生がどういう研究をなさっていたかはこっちで読むか。

 

日経サイエンス2019年4月号

日経サイエンス2019年4月号

 

 

『科学者はなぜ神を信じるのか』を読んだ

昨年、本屋で見かけて興味を惹かれながらもそのときは買い逃し、以来探していたこの本をしばらく前にやっと見つけて購入。

 

 

ここ1年くらいで科学史関連の本を何冊か読んだのだけれど、過去の科学者、哲学者が非常に宗教的であったことを知るにつれ、「科学と宗教」について考える機会が増えていた。このブログでも以前書いたけれど、ニュートンが後年錬金術にのめり込んでいたという事実を知ったときはかなりびっくりして、その理由を知りたくて錬金術についての本を読んだりもした。

 

norikoinada.hatenadiary.jp

 

結局、この『錬金術大全』の中には私が欲しかった答えはなく、その後、現在まだ読みかけの科学史に関する本の中に「ニュートンは非常に敬虔なカトリック信者で、万有引力も神の力によるものだと思っていた」というようなこと書かれていたのを読んでそれなりに納得したのだが、では「なぜニュートンは神を信じていたのか」という理由としては、まあ時代だったのかなあ程度の認識しかなかった。

 

で、そんなときにこの本を見かけて「これは読まねば・・・」となったわけだ。まあ一番最初に書いたように、最初に見かけたときは購入せず、実際に購入したのはしばらく経ってからなのだが。

 

著者の三田先生は、素粒子論の理論物理学者であり、カトリック教会の助祭(司祭に次ぐ職位らしい)でもあるという方。「はじめに」によると、高校生(おそらく日本の高校生だろう)相手の授業をしていたときに、「科学の話の中で神を持ちだすのは卑怯ではないか」という質問を受け、それをきっかけとして「科学と宗教」について考え始められたのだそうな。

 

「科学者はなぜ神を信じるのか」に対する答えを得るために、本書では、歴史上有名な科学者たちと神との関わりを紹介していく。取り上げられているのは、コペルニクスガリレオの地動説、ニュートン万有引力アインシュタイン相対性理論素粒子論、ホーキングの宇宙理論。それらの科学者が宗教(主にキリスト教)をどう考えていたのかが綴られると同時に、彼らが唱えた理論の話がわかりやすく説明されていて、物理の入門書としても面白い。恥ずかしながら、私はこの本で初めて相対性理論素粒子論の概要を理解しました。また、宗教について、それらの科学者が同時代の他の科学者と交わした会話、手紙のやり取りが非常に興味深い。第6章のコラムにあるハイゼンベルクディラックとパウリの「神と科学」についての会話は、三田先生自身の翻訳だそうだけれど、これを読むだけのためにでも本書を買う価値はあると思う。

 

ところで私自身は、大半の日本人と同様、一応形としては仏教徒でお寺に先祖のお墓があるけれど、基本的には無神論者だ。神社やお寺に行けばお参りするし、神社でお祓いをしてもらったこともあるけれど、神様や仏様のご利益を信じているからそうしているというより、宗教に対する一種の尊敬からそうしている、という感じ。天国も極楽も信じてはいなくて、死んだら眠ったような状態になって何もなくなってしまうのだろうと思っている。とは言え、うちの母と祖母は割と宗教的な人たちで、祖母は、まだ元気な頃には、有名なお上人さまの話を泊まり込みで聴きに行っていたくらいのかなり敬虔な仏教徒だし、中学校高校とカトリックの学校で学んだ母は、自身はカトリック教徒ではないもののキリストの教えには大きく影響を受けていて、神様でも仏様でもどちらでもないようなどちらでもあるような絶対的な存在を信じているようだ。齢を取るにつれて宗教的になって言った人の話もよく聞くし、また私も今後の人生でなにか耐え難いほどの恐ろしくつらいことに出会うかもしれず、そうなったときに最終的に頼るのはきっと宗教なのだろうと思ったりもする。でもとりあえず今のところは「神様や仏様を信じる」というのがどういうことなのか、よくわからない。

 

一方それと矛盾するようであるけれど、宇宙の成り立ちや宇宙の外側などについての科学者の話を読んでいると、時折「神」についての言及が出てくることがあり、そういうところで現れる「神」に対してはなんとなく理解できるという自分もいる。私が小学生のとき、宇宙について少々興味が湧いて、宇宙について書かれた本を母に買ってもらったのだが、その本を読みながら、ビッグバンの前の世界とか宇宙の外の世界などを考えていたらどんどん怖くなってしまって、結局宇宙に対する興味はそこで薄れてしまった。未だに「宇宙の果て」なんてことを考え始めると怖くてたまらなくなって即座に頭から追い払うようにしているのだが、そういう途方もなく壮大なスケールのことを考え、そしてそんなにも壮大なスケールの事象が秩序だった数式で説明されるという事実に遭遇するときに、その美しさと不思議さに、神のような絶対的な存在を感じざるを得ないのだろうということはなんとなく理解できるのだ。

 

で、「なぜ信じるのか」。三田先生の解釈は本書の「終章」に書かれているからそれは読んでもらうとして、本書を読んだ私自身の解釈は次の通り。コペルニクスガリレオニュートンなど近代以前の研究者にとっての宗教は、上にも書いたように、宗教が生活の一部だったから、つまりそういう時代だったから、だから信じていたというのが主な理由なのではないだろうか。一方で、本書で紹介されている、アインシュタイン素粒子論に関わる研究者たち、またホーキングなどにとっての宗教は、無神論者と言われていながら後年は宗教的発言が多かったアインシュタインに代表されるように、「神のような絶対的な存在を信じざるを得な」くなった結果の到達点なのではないだろうか。私もこれまで科学者の端くれとして科学に携わってきて、顕微鏡を通して見る細胞の中の小さな世界を前に「こんな小さくて複雑なものがこの世の中にある」という美しさ、不思議さに呆然とした瞬間が何度かあった。私の場合は科学の周辺部でうごうごしている程度なのだが、結局、「世界の根源」について突き詰めて考えて、その中で世界の美しさ、不思議さに打たれるとき、「絶対的な存在」を考えざるを得ないということなんじゃないかな。

 

ところで「科学とニセ科学」について書かれた本の中で、しばしば「ニセ科学」は「宗教」に例えられる。「科学」が、世界の成り立ちについて理論的な説明を与えようとする行為であるのに対し、「宗教」は、神様によって「こういうものだ」と定義された世界を疑うことなくそのまま信じるという行為、というわけだ。つまりこのような記述の中で、「科学」と「宗教」は対極に位置するものとみなされている。確かにその図式は明確でわかりやすいのだけれど、本書を読んでいて、そんなふうに割り切るのは少し違うなと改めて思った。もちろん一部の悪質な新興宗教は、信者からお金をむしり取るためにわざと信者を思考停止の状態におい込んだりするのだろうけれど、キリスト教が時代に合わせて変化していることからもわかるように、真の宗教家は、思考停止に陥いることなく神に近づくためにたゆまない努力を重ねている。本書の最後の下りで三田先生がおっしゃっているように、神を信じそれに近付こうとすることも、科学で真実を明らかにしようとする(と言うのは非実在論的立場から言えば正しくないのかもしれないがここでは敢えてこう書く)ことも、「考え続ける」という点では同じなのだ。そういう意味では、「科学ではわからない」などと思考停止に陥っているものをニセ科学と定義することもできるな、と、考えたのだった。

『お茶をどうぞ』を読んだ

生協の本売り場で見かけて購入。

 

 

向田邦子さんのエッセイに初めて出会ったのは小学校高学年の頃だった。母が持っていた文庫本の『無名仮名人名簿』とか『夜中の薔薇』とか『眠る盃』とか『霊長類ヒト科動物図鑑』とか、何度も繰り返し読んだ。大人になってからは、『男どき女どき』とか『思い出トランプ』とかの小説、それから雑誌や料理本なんかの向田邦子関連書籍も見かけるたびに買って読んだ。猫好きだったところ、おしゃれやお料理も大好きだったところ、絵画や骨董品を集めてらしたところなど、仕事だけじゃなくて生活そのものを楽しんでいらしたところが好きで、私にとって(そしておそらく私の年代以上の多くの女性にとって)理想の女性の一人。

 

そういうわけでこの本も、見かけてすぐ購入した。2016年に単行本として刊行された本の文庫化で、テレビや誌上での向田邦子の対談を集めたもの。長年、ラジオやテレビの脚本家として活躍してきた向田さんだけあって、対談の相手は、黒柳徹子森繁久彌小林亜星阿久悠和田勉久世光彦など、恐ろしく豪華。そして対談中の話しぶりからして、向田さんがこれらの方々と普段から親しく付き合っていらしたことがわかる。

 

しかし向田さん、まだまだ女性の社会進出が遅れていた時代にばりばり仕事をして、脚本家として名をなした後作家に転身して直木賞も受賞して、ほんとすごい人なのだが、この対談を読んでいると「男は・・・女は・・・」というフレーズがかなり頻繁に出てきて、そういう時代だったんだなあ・・・と思わされる。例えば森繁久彌との対談中の以下の会話。

 

森繁 (・・・)若い時代にほのぼの好きだったという女性には会わないほうがいいですね。(・・・)

向田 そうでしょうね。大体、同じ齢だったら男の勝ちですね。なぜでしょう。

森繁 やはり齢をとると、きれいにならないね。言い方はよくないけれど。

向田 これは本当にならない。女は齢に関しては不利ですね。(p50)

 

それから小林亜星との会話。

 

亜星 (・・・)男が書く家庭っていうのは、なんか観念的でね。

向田 でも、やっぱり男性のほうが巨視的っていうか、大きいんじゃないかしら。(p74)

 

年齢に関しては、向田さんは晩年50歳くらいの頃の写真を見てもとてもおきれいだし、男性だって齢をとって若い頃と大きく変わって「昔はかっこよかったのに・・・」という人はたくさんいるし、齢を取ってきれいにならないかどうかは男性・女性というより個人差がすごく大きい気がするが、昔は、女は家庭に入って子供を持ったらおしゃれなんてする暇もなくする必要もない、みたいな圧力もあったのかもしれないな。今、齢をとってきれいな女性が増えているのは、そういう圧力がなくなってきたせいなのかもしれない。また、男性のほうが巨視的で女性のほうが細かいところに目が向く、という話は昔からよく聞くけれど、真偽のほどは定かでない。おそらく、家庭に閉じ込められていた女性と、社会に出て働いていた男性との立場の違いでしかないのではと私は思っている。

 

上の引用以外にも、女性を下において男性を立てるという向田さんの姿勢はこの対談週では随所に見られる。子供の頃からそういうものだと教育され、男性をたてないと女性が社会で働くことすらできないような、そんな時代だったんだろうなあ・・・と読んでいて少し苦しくなった。

 

一方で、向田さんの美学とか、仕事をする上での向田さんなりの工夫なんかも随所に盛り込まれているので、向田ファンとしてはやっぱり買わざるを得ない本ではある。どこに書いてあったか忘れたけれど、ドラマの脚本を書くときに、みんないっしょにご飯を食べるような、実時間と同じ時間の流れで進むようなシーンをどこかに入れておくと、他のところで時間を飛ばしても見ているほうは違和感がない、という脚本のテクニックに関する話は非常に興味深かった。しかし、原由美子さんとの対談で出てきた、「ローレン・バコールよりもマリリン・モンローになりたかった」という向田さんの談はかなり意外だったな。