『マクニール世界史講義』を読んだ

最近科学史に興味を持ち始め、これまで何冊か新書・文庫で入門的な本を読んだ。で、思い至ったのが、「科学史は歴史。世界史をちゃんと抑えておかないとだめ」という当たり前のこと。私、そう言えばセンター試験で世界史は一応受験したけれど、でもそれほど真剣にやっていなかったのでぼろぼろだった(同時受験した日本史はそれなりに良かったので、二次試験も合わせてなんとか大学は合格できた)。その後大学に入ってから、教養課程で西洋史を受講した覚えがあるが、そこでもあまり真剣に勉強した記憶はなく、世界史においていつ何が起こったかは常に曖昧なまま今まで生きて来てしまった。しかしもはやごまかし続けることはできない。何しろこの冬には一コマとは言え科学史で講義をしないといけないのだから。

 

というわけで、手始めにしばらく前に買ってあったこの本をようやく読んだ。

 

マクニール世界史講義 (ちくま学芸文庫)

マクニール世界史講義 (ちくま学芸文庫)

 

 

マクニールと言えばしばらく前に流行った『世界史』なのだが、なぜゆえその『世界史』ではなくこの『世界史講義』なのかと言えば、上下巻の『世界史』の分厚さにひるんでしまったからです。だって世界史あんまり好きじゃなかったんですもの・・・。で、すぐそばにあったこの『世界史講義』を見て、お、薄くて読みやすそうじゃん、と手に取った次第。・・・しかしこの判断はずばり不正解でしたね・・・。

 

というのもこの本、マクニール先生の歴史研究の集大成的な小論を3編まとめたもので、第一章は18世紀から19世紀に至る世界の変容を「フロンティア」という観点から、第二章は文明が生まれた最初から現代に至るまでの人類の歴史を「寄生」という観点から、そして第三章は主に20世紀以降しばしば起きている経済破綻を歴史上何回も見られた「文明の破綻」と照らし合わせながら、それぞれ俯瞰して検証するというもので、基本的な歴史に関する知識、そしてその歴史がどう研究されてきたかという歴史学に関する知識がないと、その面白さが十分味わえないというか、要するに「ぽかーん」となってしまうのだ。

 

例えば最初の章。フレデリック・ジャクソン・ターナーアメリカ史に関するフロンティア論、そしてそれをさらに世界的規模に押し広げて議論したウォルター・ウェッブのグレート・フロンティアという概念に基づいて、その概念を検証しつつ歴史を紐解いていくという流れになっている。で、フロンティアは「自由・平等」を核とする概念(多分)なのだけれど実際は奴隷の存在があってこそ成り立ったものなのだよというのがどうやらマクニール先生独自の考えなのだけれど、そもそもその「フロンティア」の概念が自明のものとして語られていて文中でちゃんと定義されているわけではないので、マクニール先生の考えの新しさが伝わりにくいのだ。

 

第二章もそんな感じ。宿主(人間)を食い物にする病原体の生態を「ミクロ寄生」、一次産業に携わる人間からの搾取によって生活基盤を成り立たせる支配者の生態を「マクロ寄生」として、ミクロ寄生が歴史にどのような影響を及ぼしてきたか(これはジャレド・ダイアモンドの『銃・病原体・鉄』で読んだので割と馴染みあるテーマ)、そしてマクロ寄生の形が歴史を通してどのように変化してきたかを探るという論文なのだが、マクロ寄生については最初は官僚と支配される側だけだったのが途中で商人も出てきて、一方でそこらあたりから「マクロ寄生」という言葉が文中で使われなくなってきてしまい、商人は寄生される側なのどっちなの?と謎のまま読み続けるという・・・。こういう本を読むと私はいつもジャレド・ダイアモンドと比較してしまうんだけど、やっぱりダイアモンド先生はめちゃくちゃ文章がうまいんだよな・・・。

 

というわけで、どこが面白いのかあまりよくわからない、文章もあんまり読みやすくない、というのが読み終えたときの印象だったのだが、これを読んだあと、今『もう一度読む山川世界史』を読み進めていまして、これがめちゃくちゃ面白いんだけど、「あ、これマクニール先生が言ってたやつかな」なんて考えながら読むとまた蒙が啓かれる思いなのですよ。なので、本には読む順番があるし、ある程度の知識がないと面白さがわからないものなのだな、と改めて思ったというのが結論。『世界史』上下巻も買ったので、山川世界史のあとで読みます。

『読書で離婚を考えた。』を読んだ

ブログタイトルの通り、本が好きなので、割といつも「なにか新しい面白い本はないか」と探している。なので人がどんな本を読んでいるのかに興味がある。したがって読書エッセイみたいなものは割と好きだ。新聞の書評も結構好きだけど、読書エッセイのほうが書いた人の人柄なんかも知ることができて面白い。とは言え、それほどたくさんの読書エッセイを読んでいるわけでもなく、これまで読んだのは三浦しをん米原万里佐藤優立花隆の読書エッセイくらいかな。対談形式の読書本だと最近のヒットはやっぱり清水克行と高野秀行の『ハードボイルド読書合戦』ですよね。あと、エッセイじゃないけど、本がたくさん紹介されていて面白いのはやっぱり『バーナード嬢、曰く。』(漫画)。

 

と、いきなり他の本の紹介から始まってしまったのだけれど、今回読んだ本はこちら。

 

 

SF作家の円城塔とホラー作家の田辺青蛙(たなべせいあ、と読む)の夫婦が、夫婦間の相互理解を深めるため、互いに課題図書を出し合ってそれについて感想を書くというリレー式の読書エッセイ。昨年出版された本で、多分そのときにネットでこのお二人が宣伝対談をなさっているのを見て興味を惹かれていたのだった。ちなみに私、円城塔は2冊ほど読んだことがあるのだけれど、田辺青蛙の作品は読んだことがない。円城塔を読んだことがあるのは、SF作家だから、それから経歴を見て興味を惹かれたから。ウィキによると2000年に東大総合文化研究科で学位を取得なさっているらしく、思いっきりかぶってんじゃん・・・。構内ですれ違っていたかも知れぬ。

 

で、この本。昨日近所の図書館で見かけてそう言えば読みたかったんだと思い出し、借りてきて(なので販売冊数には貢献できていない)昨日と今日の通勤電車で読み切った。最後まで読んで思ったのが「離婚を考えるほどまでの危機的状態じゃ全然ないじゃん」ということ。タイトルから、リレー形式で回数を重ねるにつれどんどん二人の関係が険悪になっていくのだろうか・・・とちょっと不安かつ野次馬的興味で読んでいたのだけれど、そんなことは全然なかった。まあもしかしたら家庭内ではちょっと険悪になっていたのかもしれないけど、普通に考えて公開される文章で家庭内不和をあからさまにはしませんよね。でもまあ実際離婚してないわけだしこの本のテーマである「夫婦間の相互理解」も多少は進んだようだし、「ほんとにこの二人、離婚を考えるところまで行っちゃったのかしら?」と、素直に心配して心配しすぎて読めない、という人は、安心して読んだらいいと思う。

 

一方で私は割と普段から「自分のこともわからない人間が他人のことなんてわかるわけはないのだから、よりよい人間関係を構築するためには、相手を理解しようとするより理解はできないものという前提で相手の考えを尊重したほうがよい」という考えで、もちろん完全に実践できているわけではないのだが、できるだけこの考えに基づいて行動しようとしている。で、この本を読んで、やっぱり他人を理解するのは無理だなと思ってしまいましたね・・・。そもそも円城さんと田辺さんのお二人がこの読書リレーを始めた目的が「夫婦の相互理解を深める」なので、こう言ってしまうと身も蓋もないのだが。

 

ただ、本書を読んでいると、どうも「円城さん→田辺さん」よりも「田辺さん→円城さん」のベクトルのほうが強いのではないかという気がした。例えばそれは、「二人で一緒になにかしよう」という提案が田辺さんからは頻繁になされるのに対して、円城さんは毎回それをスルーしているところ、田辺さん回には頻繁に「こんな自分で円城はいいのだろうか」と二人の関係を心配するような記述があるのに対し、円城さん回にはそのような記述は見当たらないところから類推される。問題はそのベクトルが、「円城さんを理解したい」というよりも、「自分を理解してほしい」という要求的な性質を持つもののような気がするところ・・・。時々「田辺さん、円城さんの回ちゃんと読んでる?」と思わせる文章が散見されたり、料理はちゃんとレシピ通りに作って欲しいという円城さんのリクエストは一切無視して相変わらずレシピを無視した料理を作り続けたりというところから、そんな気がしてしまったのだよね・・・。そして、レシピを無視した料理を作り続けることに対して田辺さん自身罪悪感は抱いているらしく、それについて謝罪の言葉が出てきたりもするのだけれど、かと言って自分を変えようとするわけでもなく、そんなところに「ありのままの自分を受け入れて欲しい」という要求が垣間見えている・・・気がする。

 

上述の通り、私は円城さんとかなり似た経歴を持っているし、考え方もこの二人の中では円城さん寄りなので、どうしても田辺さんに対して辛口になってしまうのだが、私は自分を変えようとしない田辺さんに対して文句を言っているわけではなくて、変えられないんなら変えなくていいんじゃない?と思うわけなんですよね。自分を変えるのってなかなか難しいですよ。特に歳を取ってからこれまでの自分を改めるのは難しい。だからどうしても変えられないんなら別にそのままでいいんだけど、だとしたら相手が変わることも期待しちゃだめですよ、と思うのだ。「私の野望の一つに夫を関西人に改造するというのがあります。」(p295)なんて記述もあるんだけど、自分が変わらないのなら人も変えようと思っちゃだめですよ、そのままの相手を受け入れないとだめですよ、田辺さん・・・。

 

ただこれはそのまま私に返ってくる言葉で、私も他人、特に家人に対する過剰な期待はしてはいけない、人を変えようと思ってはいけない、それを肝に銘じて日々行動せねばいけないなと、この本を読んで改めて思った。幸い私も家人も円城さん寄りの人間で、家人は特に「人には期待しない」度合いが強いので、今のところそれなりに上手く(と、私は思ってるけど相手はどう思っているのかは知らない)やっていけているのだが、甘えないように常に己を顧みなければならないなあ。

 

と、本書を読みつつ、夫婦のあり方、人間関係にいろいろ思いを馳せてしまったのだが、この本のテーマはそれだけじゃなくてもうひとつの重要なテーマが「読書」なんである。本書では、田辺さん20冊、円城さん20冊で計40冊の本が紹介されている。ちなみにその中で私がこれまで読んだことのある本は2冊だけでした。それも二人が一番最後に紹介し合う2冊(円城さん紹介『ソラリス』と田辺さん紹介『バトル・ロワイアル』)。上に「自分は円城さん寄り」と書いたけれど、円城さんが薦める本だけじゃなくて田辺さんが薦める本もどれも面白そうで、『バーナード嬢』でも紹介されていた『羆嵐』、スティーブン・キング『クージョ』、小林泰三『記憶破断者』、中島らも『西方冗士』なんかは興味を惹かれた。

 

羆嵐 (新潮文庫)

羆嵐 (新潮文庫)

 
クージョ (新潮文庫)

クージョ (新潮文庫)

 
記憶破断者

記憶破断者

 

 

一方の円城さん紹介の本も、ジョー・ヒル『ボビー・コンロイ、死者の国より帰る』、エンリコ・モレッティ『年収は「住むところ」で決まる』、ロラン・バルト『パリの夜』、ジョン・ヴァーリィ『ビートニク・バイユー』、木村俊一『連分数のふしぎ』は読んでみたい。特に最後のやつは今すぐにでも読みたい。

 

年収は「住むところ」で決まる  雇用とイノベーションの都市経済学

年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学

 
連分数のふしぎ (ブルーバックス)

連分数のふしぎ (ブルーバックス)

 

 

ボビー・コンロイ、パリの夜、ビートニク・バイユーは短編集内の一編みたいですね。

 

何はともあれお二人いつまでも仲良く。

『know』を読んだ

『[映]アムリタ』から『2』へと続く一連の作品を読んで以来、すっかり野崎まどの魅力にとりつかれてしまった。

 

know (ハヤカワ文庫JA)

know (ハヤカワ文庫JA)

 

 

『2』とその前の5部作は一応このブログでは「SF」にカテゴライズしたのだけれど、改めて考えてみると「サイエンス」要素はほとんど出て来ない話だった。強いて言えば『死なない生徒殺人事件』の主人公が生物学教師だったのがほぼ唯一のサイエンスとのつながりか・・・・。一方この『know』は迷うことなくSFですね。出版も、『2』とその前の5部作シリーズがラノベを扱うメディアワークスだったのに対し、この『know』は日本人SF作家を扱うレーベル、ハヤカワ文庫JAから出版されている。

 

一方で、この『know』でも『2』でも、野崎まどが突き詰めたかったことは同じなんじゃないかと思う。私が考えるにそれは「人間は神になりうるか?」ということだ。人間は、全てを知り、そして全てを操ることができる存在=神になれるのか?なれるとすればそれはどのような形で可能なのか?『[映]アムリタ』から始まる5部作、そして『2』という一連の作品の中で、最原最早は「映画」という手段を使って人々を操り、そうすることによって神であろうとし、またさらに自分を超える存在を作ろうとする。一方で、最早はただ最初から「天才」であると記されているのみでどうしてそのような超人的存在になったのかは明かされていない。ただ最初からそうだったというだけで、どうすれば人間は神に近づけるのかという道筋については書かれていない。そして、人間が神に近づけるとすればそれはこのような道筋なのではないかという一つの答えがこの『know』なのではないかと思う。

 

時は2081年、場所は京都。2066年に脳への「電子葉」の植え付けが義務化され、その機能によって人の脳はネットワークから直接情報を抽出することが可能になった。それと同時に、アクセスできる情報量に応じて人はクラス分けされ、標準的な市民はクラス2、社会貢献度が高いとみなされるとクラス3に格上げされる。国の主要な機関に勤める人間はそのさらに上のクラス4から6の権限を許されており、主人公であり情報庁の指定職審議官である御野・連レル(おの・つれる)はクラス5のエリートだ。

 

連レルがクラス5を目指す契機となったのが、中学二年で京都大学情報学の教授、道終・常イチ(みちお・じょういち)の教えを受けたことだった。常イチは連レルとの出会いの後、共同研究先のアルコーン社から最新研究成果を盗み、そのデータを消去して失踪する。それから14年、常イチが書いたコードを見直していた連レルは、コードに隠されたメッセージに気づき、そして常イチに導かれるままに「クラス9」の少女、道終・知ル(みちお・しる)に出会う。

 

クラス9の少女、知ルは、電子葉よりも桁外れに高い処理能力を持つ「量子葉」を植え付けられており、それによって今起きていること、これから起きることを全て計算し、「知る」ことができる。その能力を使って知ルは「全知」を目指す。つまり、全ての情報を吸収しそれを分析することによって「全知」を可能にできるのでは、というのが「神」になるための道筋として野崎まどが出した一つの答えだというわけだ。

 

ところで『[映]アムリタ』から『2』へと続く一連の作品の感想で、「野崎まどの作品は、いよいよクライマックスというところで一気に読み続けることができず、いつも一旦本を閉じて一息ついてしまう」というようなことを書いた。

 

norikoinada.hatenadiary.jp

norikoinada.hatenadiary.jp

 

この『know』もやはり一気に読み続けることができず、いよいよクライマックスというところで一旦本を置いて気持ちを他に逸らさざるを得なかった。この理由についてこのブログでは「一気に読み進めてしまうといきなり現れる闇に飲み込まれそうになるから」とか「一気に読み終わってしまうのが勿体ないから」とかいう分析をしていたのだが、今回この『know』を読んで思ったのは、展開の意外性ということだ。野崎まどの小説は先が予測できない。基本的には純粋なハッピーエンドにはなりえないし、主要登場人物と言えどもいきなり死んでしまうこともありうる、読者を油断させることのない小説であることは読んでいればわかる。だから最後、どんな展開が待ち受けているのかと思うと怖くなってしまってつい本を閉じてしまう。一気に読み進めてしまうとまともに衝撃を受けてしまいそうで怖いのだ。予測不能のすごい小説を書く作家、それが野崎まどなのだ。脱帽です。

『少年は残酷な弓を射る』を読んだ

SF、ミステリ以外の小説を久しぶりに読んだ。

 

少年は残酷な弓を射る 上

少年は残酷な弓を射る 上

 
少年は残酷な弓を射る 下

少年は残酷な弓を射る 下

 

 

数年前原作が映画化された際に、主人公の母親をティルダ・スウィントンが演じるというニュースを見て、なんとなく気になっていたんですよね。

 

少年は残酷な弓を射る [DVD]

少年は残酷な弓を射る [DVD]

 

映画のあらすじを読んで楽しい面白い本でないのはわかっていたし、読み進めるのがつらくなるだろうし疲れるだろうなとも思っていた。でも図書館で見かけて手に取ったら装丁がとても美しくてやっぱり気になって、しばらくは見かけるたびに「そのうち読もう 」と思いつつ結局は手に取らないということを繰り返していたのだが、とうとう「今読もう」と決意した次第。

 

で、内容なのだが、コロンバイン高校銃乱射事件、バージニア工科大学銃乱射事件などの若者による大量殺人事件を題材として書かれたフィクションで、主人公のエヴァ・カチャドリアンは、15歳で大量殺人を引き起こしたケヴィンの母親という設定。ちなみに原題は"We need to talk about Kevin"で、そのタイトルの通り、エヴァが夫フランクリンに当てる手紙の中で息子ケヴィンのことを語るという書簡体の形式を取っている。ケヴィンが大量殺人を引き起こしたこと、エヴァが現在一人暮らしであり、周囲の敵意にさらされつつも、ケヴィンが収容されている少年院に近いという理由から事件前と同じ地域で生活していること、面会日には欠かさずケヴィンに会いに言っていることが早い段階で明かされる。そして、フランクリンに一方的に語りかける一連の手紙の中でエヴァは、現在のケヴィンの状況について報告するとともに、フランクリンとの出会い、子供を持とうと決意したきっかけ、そしてケヴィンが生まれてから事件が起きるまでのさまざまな出来事を、丹念に記述し分析することによって、なぜケヴィンがあのような事件を引き起こしたのかを解き明かそうとする。

 

「息子が大量殺人を引き起こす」という情報が最初の段階で与えられているだけに、物語は最初から不穏で緊張感に満ちているのだが、生まれてきたケヴィンはもうとにかくすべての親の悪夢を凝集したような子供で、生まれてすぐにお乳を飲ませようとするエヴァを拒絶し、これみよがしに泣きわめいてエヴァを困らせる。ベビーシッターを雇っても、皆1日2日と持たずに辞めていく。5歳になってもおむつが取れず、エヴァはケヴィンのおむつ替えに一日に何度も学校に通う羽目になる。そして何より、全てのケヴィンの行動が理解不能な悪意に満ちていて、読者はその行き着く先を知っているだけに、読み進めるに従ってケヴィンの悪意ある行動がどんどんエスカレートしていくのではという不安と恐怖を強めることになる。

 

さらにこの物語の語り手であるエヴァの逃げ場を奪っているのが、善良で少々愚鈍なアメリカ人として描かれている夫フランクリンの存在だ(ちなみにエヴァアルメニア系)。ケヴィンはフランクリンの前では良い子を装い、昼間は手がつけられないほど泣きわめいてもフランクリンが帰ってくると泣き止んで良い子になる。長じてからのケヴィンは、エヴァには常に口答えするが、フランクリンの前では良い子を演じる。ケヴィンの悪意はエヴァだけでなく、学校の同級生や隣人たちにも向けられて、周囲の多くの人たちもケヴィンの悪魔的な性質に気づき警戒するようになるわけだけれど、善良なアメリカ人フランクリンはあくまでも自分の子供を信じよう、良い親であろうと思うあまり、頭がよく口がまわるケヴィンに丸め込まれる。そしてケヴィンの悪意を指摘するエヴァを「君はそれでも母親なのか」と責めるのだ。

 

いやー、つらい。こう書いていてもつらいのだが、読んでいてもやはりとてもつらかった。回想の中のエヴァは将来の悲劇を知るよしもなく、度重なるケヴィンの悪意ある振る舞いに裏切られて半ば諦めつつも、まさか殺人を犯すまでの悪魔的な人間であるとは露とも思わずケヴィンを育てていくのだが、結末を知らされている読者は、この手紙を書いているエヴァとともに、何がいけなかったのだろう、育て方がいけなかったのだろうか、そうだとしたらどこで間違えたのだろうと考えながらこの物語を読み進める。

 

また、上述のようにこの物語は夫フランクリンにあてた手紙という形態を取っているのだが、じゃあエヴァが手紙を書いている現在、夫フランクリンはどこでどうしているのかは一切触れられない。上巻の最後ではケヴィンの妹シーリアが生まれるのだが、シーリアがどうしているのかもわからない。それらの謎は謎として残されたまま物語が進んでゆき、その謎が、どんどん狭まっていって抜け道のない袋小路に追い込まれていくようなつらい物語展開の中、読者を最後まで引っ張っていく。

  

ではなぜケヴィンはわずか15歳という若さで大量殺人という恐ろしい事件を引き起こしたのか?それについての答えは最後まで本書の中では与えられないし、明確な答えもないのだろう。主人公エヴァは、ティルダ・スウィントンが演じたことからもわかるように、非常に理知的理性的な女性で、文中では悪意に満ちた行動を続けるケヴィンに対する嫌悪をあらわにする。それゆえあとがきによると、本書が発表された際の読者の反応は、「邪悪に生まれついた子供の犯罪を阻止するのは無理だ」というものと「母親の冷淡さが息子を犯罪者にした」というもののまっぷたつに別れたそうだ。確かにケヴィンが生まれた直後のエヴァの反応は、冷淡な母親がケヴィンを邪悪にしたのかもしれないと感じさせるに足るものだし、それは作者の仕掛けでもあるのだろう。私自身は、生まれつき邪悪な性質を持つ人というのは確かにいて、そのような悪意に出会ってしまったら、全力で逃げるしかないのだと思っている。しかしエヴァはそのような悪意の母親であるがゆえに逃げることができない。それゆえにこの物語は逃げ場がない。

 

でも逃げ場のない物語は、いきなり意外なほど静謐で穏やかな終わりを迎える。もっと後味の悪い小説だろうと思っていただけに本当に意外だったのだが、だからと言ってハッピーエンドにはなりえない物語なだけに安易なハッピーエンドではなく、戦いの果てに疲れ切って迎える結末はきっとこんな感じなのだろうという説得力に満ちている。ちなみに私はそこだけ何度も読み直しては、読み直すたびに泣きそうになった。途中あまりにつらくて怖くて一語一語を追うことができず、最低限ストーリーを追うことができる程度に読み飛ばしてしまったりしたところもあったが、最後はやっぱり読んで良かったなと思ったのだった。

『テロメア・エフェクト』を読んだ

図書館で借りて読んだのだが、期限をかなり過ぎてしまい、その状態で延長するのもためらわれ、読み終わるやいなや返却してしまったので手元にない。なので覚えている範囲で感想を書きます。

 

細胞から若返る! テロメア・エフェクト 健康長寿のための最強プログラム

細胞から若返る! テロメア・エフェクト 健康長寿のための最強プログラム

 

 

テロメア研究で2009年にノーベル医学生理学賞を受賞したエリザベス・ブラックバーンとその共同研究者による著作。・・・と書くと、テロメア研究を広めるために書かれた一般向けの科学書で、テロメアについての最新知見がわかりやすく書かれているものだと思うでしょう。少なくとも私はそうだと思ってこの本を借りました。

 

そしたらまず驚いたのが出版の年。これ、去年出版されてるんですね。原著もアメリカでの出版も2017年1月らしいから、アメリカと日本ほぼ同時に出版準備が進められていた?ちなみに原著はこちら。

 

The Telomere Effect: A Revolutionary Approach to Living Younger, Healthier, Longer

The Telomere Effect: A Revolutionary Approach to Living Younger, Healthier, Longer

 

 

あれ?こちらでは発売日が2018年になっている・・・。ハードカバー版が昨年、ペーパーバック版が今年発売されたってことかな。いずれにせよ、ノーベル賞受賞者による一般向けの啓蒙書って、受賞のあと知名度がまだ高いうちに出版されるのが普通だと思うのだが、この本はブラックバーンノーベル賞受賞から8年も経って出版されている。

 

で、中身を読み進めてまたびっくり。もちろんブラックバーンノーベル賞受賞に至ったテロメア研究の概要についても説明されてはいるのだが、テロメアの維持機構や最新の分子生物学的知見などに関する専門的な話は一切なし。そういう専門的な話に興味のある人は巻末の引用文献に私が書いた総説をリストしているから読んでね、としか書いてない。じゃあ何が書いてあるかというと、内容的には自己啓発本に近い。と、思う。「自己啓発本」なるものの定義がよくわからないのでこの使い方で合っているのか少々自信がないのだけれど、要するに、さまざまなストレス、病気、生活習慣とテロメア長との間に相関があり、また生活を改善することによってテロメアが長くなるという最新の知見をもとに、ではテロメアの長さを保って健康に長生きするにはどうすればいいか、ということを提案しているのがこの本なのだ。

 

そもそもテロメアとは何かということについて簡単におさらいしておく。テロメアとは真核生物の染色体の末端にあるDNA配列のことで、同じ配列(ヒトではTTAGGG、シロイヌナズナではTTTAGGG)が、数十kbに渡って繰り返されている。DNA複製の機構上、細胞が分裂するたびにテロメアは、というより染色体の末端は少しずつ短くなるので、細胞分裂回数とテロメアの長さは反比例する。細胞の分裂回数には制限(「ヘイフリック限界」と呼ばれる)があり、その回数を超えて分裂しなくなった状態を「細胞の老化」と呼ぶのだが、老化した細胞はテロメアが短いことがわかっている。つまり、テロメアが短いことと老化との間には相関がある。

 

テロメア - Wikipedia

 

この本の共著者でもあり、ブラックバーンのUCSFにおける同僚でもあるエリッサ・エペル(と書いてあるけど発音的にはイーペルじゃないのかな・・・?)は、心理学者として介護に携わる人たちのストレス状態を研究するうちに、強いストレスを抱えている人たちが、それほどストレスを感じていない人たちに比べて老化の速度が速いことに気づいたそうだ。そして、上述のブラックバーンの研究成果を見て、ではその人が抱えるストレスの強さとテロメアの長さの間には相関があるのでは?と思い至ったらしい。エペルからの共同研究提案を受けたブラックバーンも当初半信半疑だったらしいのだが、研究を開始してみたら実際にストレスとテロメア長との間に非常に明確な相関(ストレスが強いほどテロメア長が短い)があることがわかって驚いたそうだ。

 

そして彼女らのこの研究をきっかけとして、今日に至るまで上述のようにさまざまな病気、生活習慣とテロメアの長さとの関係についての研究が行われているのだが、このリストが結構驚き。病気とテロメア、はまだわかるのだが、睡眠時間、運動習慣、食習慣も、テロメアの長さに影響を与えることが示されている。例えば、睡眠時間の短い人ほどテロメアが短い傾向にあるし、軽い運動を定期的に行っている人はテロメアが長い傾向にあるし、健康的な食習慣の人はテロメアが長い傾向にある。それぞれの項目についてもかなり細かく調べられていたのだが、実際の本が手元にないので書けない・・・。一つ覚えているのは、コーラやソーダのような砂糖がたくさん入っている清涼飲料水の工場的多量摂取とテロメア長との関係について調べた研究。コーラを毎日大量に飲む人はテロメアが短い傾向にある、という研究結果があるそうな・・・。ちなみにここでいうテロメアは、大体が血液中の白血球から調べられているようだ。

 

またさらに、ストレスや悪しき習慣の結果、テロメアが短くなったとしても、ストレスを軽減したり生活習慣を改善することによってまたテロメアが長くなることも研究によって示されている。テロメアを長くする行動の一例として述べられているのが、最近「マインドフルネス」として割と話題の要するに「瞑想」で、数ヶ月の瞑想ワークショップの結果、被験者のテロメアが長くなったという研究成果も出ているそうだ。

 

一方、この本でも注意事項として何回か書かれているのだが、じゃあ薬でもなんでも使ってテロメアを長くすればよいのかといえばそうではない。実際にアメリカではテロメアが長くなる効果をうたったサプリメントが売られていたりするらしいのだけれど、がん細胞のテロメアは長いことからも示唆されるように、むやみやたらとテロメアを長くすることは病気につながる可能性がある。また、「相関がある」ということは原因・結果とはまた別物で、あくまでもテロメアの長さは健康や老化の指標に過ぎない。ただ、健康の指標としては非常に有用だし、テロメアを長く保つような生活を心がけることは、健康で長生きすることにもつながりますよ、というのがこの本の主張なのだ。

 

・・・とは言えここまで書きつつ改めて考えてみると、「自己啓発本」として考えるとこの本で提案されている「健康で長生きにつながる生活習慣」自体は特に目新しいものではないよな。睡眠は十分に取りましょう、適度な運動を定期的に行いましょう、野菜や肉をバランスよく食べて糖の取りすぎは避けましょうって、まあかなりよく言われている、誰でも知っている健康法だ。まあ「サイエンス本」として考えると、さまざまな生活習慣とテロメアの長さとの間に相関があるというのは新鮮な知見であった。講義に使えそうだし、今回は図書館で借りたのだけれど、自分で買ってもいいな・・・。

 

ところで、じゃあテロメアと老化、健康との間にここまで相関があるというのなら、「あなたのテロメア測ります」なんてビジネスになりそうじゃない?ブラックバーン、そういうベンチャー立ち上げたりしてるんじゃないの?と、読みつつ考えていたのだが、やっぱりやってましたよね。今ではもうその会社とは関わりを絶ったらしいけれど。

 

Elizabeth Blackburn - Wikipedia

『どうすれば「人」を創れるか』を読んだ

9月の学会シーズンが終わった。今年は2週連続で2つの違う学会に参加したので、体力のない私は随分と疲れた。しかし何はともあれ終わったので、そろそろ9月に読んだ本の感想を書いておかねば。というわけでまずはこれ。

 

どうすれば「人」を創れるか―アンドロイドになった私

どうすれば「人」を創れるか―アンドロイドになった私

 

 

近所の図書館で見かけたのを借りてみたのだが、もう7年も前の本なのね。私が借りたのは単行本だけれど、今は文庫版が出ているらしい。

 

 

私が石黒先生のことを初めて知ったのは、石黒先生と石黒先生が作られた自分そっくりのロボット、ジェミノイドHIが2014年にScience誌の表紙を飾ったときのことだった。

 

About the Cover — October 10, 2014, 346 (6206) | Science

 

残念ながらこのサイトは埋め込み式にリンクを貼ることができないようなのだけれど、いやこのカバーの衝撃は大きかった。だって、そっくりの容貌をした二人の男性 ーしかも眉間にしわが寄った不機嫌そうな顔をした強面で、うっすら色のついた眼鏡をかけていて黒づくめの服を着た強烈な容姿の男性ー が並んで写真に写ってるんですよ・・・。なにこれ、ってなるよね。

 

私が石黒先生とその研究のことを知ったのはそういうわけで2014年だったのだが、この本(2011年出版)によるとジェミノイドHI-1を使ってフィールド実験を行ったのが2009年とのことだから、Scienceのカバーを飾る5年以上前にこのジェミノイドはすでに誕生していたということになる。サイエンスの片隅に身を置きつつも相変わらずサイエンスの最前線に疎いことよ・・・。

 

で、本書だが、石黒先生がジェミノイド開発に携わることになった経緯、石黒先生そっくりのジェミノイドHIと、女性をモデルとし、HIよりも表情のバラエティをつけることに重点が置かれたジェミノイドFの開発経緯、そしてそれらジェミノイドを用いて行われた数々の実験から得られた、人の感覚、自己認識とはどのようなものかについての石黒先生の考察が主体となっている。ちなみに、この本では「ロボット」「アンドロイド」などの語彙が出てくるが、それぞれの定義は以下の通りであるらしい。

 

センサで知覚し、コンピュータで判断し、モータなどのアクチュエータで動作するもの全てをロボットと呼ぶ。その意味では、エアコンや携帯電話も一種のロボットと見なしてよい。そのロボットの中で、頭や手足を持ち、明らかに人間ではないが、人間のような身体を持つものをヒューマノイド(人間型ロボット)と呼ぶ。そのヒューマノイドの中で、人間そっくりの見かけを持つものをアンドロイド(人間酷似型ロボット)と呼ぶ。ジェミノイドはこのアンドロイドの一種である。(p28-29)

 

関係ないけどこの「センサ」とか「コンピュータ」とか、最後伸ばす音を記述しない書き方、森博嗣っぽいよね。工学系の人はそうなのかな?

 

本のことに戻ると、石黒先生のこの研究が面白いのは、一見「ロボットを作る」という工学研究なのだが、「人の感覚、自己認識とはどのようなものかについての石黒先生の考察」と上にも書いた通り、実際にジェミノイドを作る過程、そしてジェミノイドを使って石黒先生が行われた研究は、認知科学脳科学、哲学と深く結びついているのだ。私が特に興味を惹かれたのが、モデルとなった女性が完成したジェミノイドFを見たときの話。ジェミノイドFは、骨格から顔貌から、正確にモデルを再現して作られているはずなのだが、完成したジェミノイドFを見たモデルの方は、「自分よりもきれいで透明感がある」と感じたというのだ。「透明感」の原因として、シリコンの皮膚が人間の皮膚よりもきれいで小じわがないことに加え、アンドロイドにはどこか「純粋無垢さ」を感じさせるところがある、というのが石黒先生の考察だ。

 

これを読んで思い出したのが、人間の顔について私自身が以前から考えていたこと。私、常日頃から、若い人の顔ってつるんとしていてあんまり強い個性がないよなあ、一方歳を取ってくるとだんだんその人の個性が強く出て来るなあ、と思っていて、歳を取ってくると若いアイドルグループが個体識別できなくなってくるのはこのせいじゃないかと考えているのだが、じゃあ若い人と歳を取ってきた人の違いはどこにあるのかというとやっぱり見た目なわけで、歳を取ってくるといろんな苦労もするわけだし、そういう苦労やらストレスやらが顔のしわなどにも反映され、またその人の噛み癖や姿勢の癖なども加わって外見の変化を生み出しているんじゃないか、そしてその外見の変化がすなわち個性なんじゃないかと考えていたのだ。

 

一方で、このジェミノイドFは、小じわまでは再現されていないとしても、それ以外は全てモデルさんとそっくりになるように作られているわけで、そうだとすると個性や透明感の喪失は外見以外のところ、例えば表情から感じ取られるものなのだろうか?あるいは小じわとか皮膚の凹凸とか、そういう微妙な見た目が結構効いてくるのかな・・・。まあ恐らく、そういうもの全てが総合的に「個性」を作っている、というのが答えなのだろうな。

 

それからどこに書かれていたか忘れてしまったのだが、ジェミノイドを遠隔操作する際に、多数の人が会話をしていてバックグラウンドノイズが高いような場所にジェミノイドが置かれていると、ジェミノイドからちょっと離れたところにいる人の会話を聞き取ることが難しい、というような記述があって、それもとても興味深かった。もう亡くなった私の父方の祖母はかなり早くから耳が遠くなったのだが、補聴器を買ってもそれをつけることを嫌がった。通常人間は聞きたい音にだけ集中する、聞きたくないときはノイズをシャットアウトするということができるのだが、補聴器をつけるとそれができなくなって、全ての音が耳に入ってきてとてもうるさいのだそうだ。祖母の場合は、歳を取ってくるにつれて脳の機能も衰えていって、それが「聞きたい音だけに集中する」ことを妨げている、という考え方もできるが、このジェミノイドの実験例と合わせて考えると、やはり脳だけでなく耳本来の機能も作用していると考えざるを得ない。そういうことって耳の研究である程度わかっていたりするのかな・・・?

 

そんな感じでいろんなことを考えさせられる、非常に面白い本だったのだが、やはりこの研究、この本の面白さの大きな部分が石黒先生のキャラクターに依っていますよね・・・。その強烈なキャラクターが強く感じられるのが、最後のほうで触れられるエピソード。ジェミノイド制作後しばらくして石黒先生自身が歳を取ってきて、ジェミノイドとの間に見た目のギャップができてきたそうなのだが、ジェミノイドを作り直すよりも自分が変わったほうがコスト的に安く済むとの考えから、ジェミノイドの見た目に自分をあわせるべくダイエットに励み、美容整形でシミを取ったりヒアルロン酸注射をして顔のたるみを取ったりなさったそうなのだ。このエピソードが至極真面目に書いてあるのだが、いやかなり笑いました。そこまでするか、って思うよね。素敵。尊敬します。

『2』を読んだ

 

2 (メディアワークス文庫)

2 (メディアワークス文庫)

 

 

いや予想を上回る衝撃でした。感想なんて何を書けばよいのやら。

 

『2』もこれまでの5部作と同様、一人称で語られる物語。主人公は役者志望の若者、数多一人(あまたかずひと)。カリスマ的人気劇団「パンドラ」の厳しい入団審査を乗り越え、無事劇団員としてスタートを切るが、その直後、異例の新人テストを受けに来た女性によってパンドラは解散に追い込まれる。そして数多はその女性に誘われて、一緒に映画を作ることになる・・・。

 

と、ここまで書けば多分5部作を読んだ人はこの女性が誰なのかはすぐわかるはず。というか、5部作を読んだ時点で『2』の主題が何なのか、誰が中心となる物語なのかは自ずと明らかなのだ。そして恐らく5部作のストーリーがこの『2』に絡んでくるのだろうな、と、5部作を読んだ人間には誰でもわかる。わかるのだが、そのつながり方がなんというかもう想像をはるかに超えるレベルなのだ。ラノベという形態、登場人物同士の戯画化された会話に騙されそうになるけれど、野崎まど、はっきり言って天才でしょこの人・・・。というか、5部作に連なるこんな本を書いてしまって、この後この人何を書くんだろう、どうするんだろう・・・と読み終わってしばらく呆然としてしまったくらいなのだが、そんな心配は全く凡人のもので、野崎まど自身はその後も作品を発表し続けているので、やっぱり天才としか言いようがない・・・。

 

ところで、これまでの5部作では「ここからが佳境!」というところで一旦本を閉じて一息つくことが多かった私だが、本作ではそんなことはなく大興奮しながら最後まで読み切った。「ここからが佳境!」というところで一旦本を閉じるという行為について、この前の感想では「戯画化された読みやすい文章でつるつる読み進めてしまうのだが、その調子で野崎まどの世界にはまり込んでそのまま最後まで突っ切ってしまうといきなり現れる闇に飲み込まれそうになるから、あえて一度その世界から抜け出ようとしているのかもしれない。」と分析していたのだが、今から思えば、5部作は全てかなり短い物語で、一方佳境が訪れるのはもうかなり最後、残りページ数が少なくなってきたところだから、ここで全部読み切ってしまうのが勿体ないという心理も大きく働いていたのかもしれない。あるいはこれまでの5部作それぞれの本の2倍以上の長さがある『2』では、一旦佳境を迎えてもまだまだ謎が多く残されていて、その謎が全部明らかになっていないのに途中でやめることなんてできなかったのかもしれない。

 

とにかく、読み終わってしばらく呆然としてしまうくらいのすごい小説だった。もう一度読んでしまった以上、知らなかった頃に戻ってもう一度この衝撃を味わうことはできないのだなあ・・・。