『女性学・男性学 ジェンダー論入門』を読んだ

男女共同参画について体系的に学ぼうシリーズ。

 

女性学・男性学 改訂版 -- ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)

女性学・男性学 改訂版 -- ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)

 

 

私が読んだのは大学図書館で借りたこちらの「改訂版」なんだけど、今アマゾンで調べたら第3版も出ているのね。いや、買いますよ第3版。生協の本屋さんにもあったし、なによりめちゃくちゃいい本でした。

 

前回感想文を書いた『LEAN IN』が、社会学的なデータを交えつつも、基本は作者シェリル・サンドバーグさんの経験を軸として書かれた本だったのに対し、こちらの『女性学・男性学』は、「ジェンダー論」という学問について体系的に記した本。ジェンダーとはそもそもなにか、から始まって、教育・恋愛・労働・家族・育児・国際化など、さまざまな観点からデータに基づいて「男女の格差」「ジェンダー」が論じられている。文章も明快でめちゃくちゃ勉強になったし、なにより筆者の熱意がいたるところに感じられて感動した。

 

最初の「はしがき」によると、著者の伊藤公雄先生(2011年に出版された改訂版では「京都大学教授」となっているけれど、今調べたら京大も退職なさって今は京都産業大学で教授をなさっているよう)が、一部の章はもうひとりの著者である國信潤子先生(ちょっとググってみても現在情報なし・・・)のアイデア、データを取り入れて、ほぼ単独で書き上げられたのがこの本で、もうひとり著者として名前を連ねている樹村みのりさんは、章の間に挟まれた漫画を担当していらっしゃる。ひょえ、伊藤先生の奥さんは大阪府立大でジェンダーの研究をなさっていた方なのか・・・。

 

www.human.osakafu-u.ac.jp

 

そういうつながりがあるから、図書館にも初版・改訂版あわせて何冊か並んでいたり、生協書籍部にも並んでいたりしたのかな。

 

上にも書いたとおり、文章のいたるところから執筆者の熱意が感じられて、これは買って線を引きつつ読まねば・・・と思わされたのだったが、特に最終章、第9章の「男女共同参画社会の見取り図」は、著者の信念、メッセージが強く込められていて熱い。たとえばこの文章。

こういうと、「自分らしく生きなさいということですか。でも、自分らしくなんて言われてもどう生きたらいいかわからない」などという声が出ることもある。言うまでもないことだが、「自分らしさ」を固定的にとらえる必要は少しもない。むしろ「生き方にモデルなどない」というのがジェンダーから解放された生き方だろう。自分なりの判断で、自分の生きたいような生活スタイルを選択したらいいのだ。他者との関係に配慮し、周囲の人との風通しのいいコミュニケーションを通じて、自分の生き方を決めていったらいい。それが「自分らしく」生きるということだろう。 (p298-299)

 それからこちらも。

問題なのは、固定的な家族というイメージにとらわれ、家族という形式にこだわるのではなく、いかに「家族をする」かを問うことだろう。家族の絆は、形式の押しつけや強制では作り出せない。相互の思いやりだけではなく、ときには相互のケンカも含む深いコミュニケーションのなかで、つねに生成し更新されていくべきものだろう。

 「家族の絆の破壊」を説く人たちの多くは、この絆が、いつも作られ・更新されていくものだという発想がどうも欠如しているようだ。「絆」は固定的なものではない。相互の関係のなかでつねに作り出されていくものなのだ。(p310-311)

この文章、夫婦別姓に反対している人たちにぜひ読んでもらいたいよ!

 

それからこの本を読んで、改めて強く感じたのは、現在の男性優位社会というのは、すべての男性にとって有利なのではなく、ほんの一部の強者である男性にとってのみ有利な社会なのだよなということ。

男性は、悲しみや恐怖感などの「弱さ」をみせるような感情表現を禁止され、業績や強者の証明を、他者に対してもまた他者を通じて自分に対してもつねに要求されるようになる。(p6)

弱さの感情表現を禁止されて抑圧された結果、鬱屈が爆発してより弱い立場の人間に暴力(痴漢などの性的な暴力も含む)をふるうのだろうな・・・。でも他者に暴力をふるって、それで一時的にすっきりするのかもしれないけど、それは飽くまでも一時的な問題解決でしかない。問題の根本解決、抑圧の排除を目指すには、多様性を認めて、一部の強者だけでなく、すべての人が生きやすい社会つくりを目指すしかないのだよな。で、その「多様性を認めてすべての人が生きやすい社会をつくる」ことを目的としているのが男女共同参画の活動なのだよな・・・ということを、改めて感じた本でした。

『LEAN IN』を読んだ

女で、この歳で、運良く同じ業界で働き続けてそこそこの役職についていると、どうしても「男女共同参画」というものから無縁ではいられない。男女共同参画については自分なりの意見を持っているつもりではあるけど、でもあくまでも「自分なりの」意見なわけで、今後意見を求められる機会が増えるとすると、もうちょっと勉強しておいたほうがいいんじゃないか?と思い始めた。で、とりあえず読んでみたのがこちら。

 

 

単行本はしばらく前(2013年だった)に出版されて本屋のビジネス書のコーナーで平積みになっているのを何回か目にしたけれど、文庫になったのは昨年のことなのね。作者のシェリル・サンドバーグさんは、大学卒業後、世界銀行のチーフエコノミストマッキンゼーコンサルタント、米国財務省主席補佐官、グーグル副社長、フェースブック最高執行責任者を歴任、という、もうひれ伏すしか無い経歴の持ち主。2011年8月のForbs誌「世界でもっともパワフルな女性100人」の5位にランクした方で、さらに二人のお子さんのお母さん。いや文句のつけようがないですよね。そんな文句のつけようがない経歴を持つためには、本人が超努力家であることもさることながら環境に恵まれていて運がよかったという要素も不可欠なわけで、彼女の経歴だけ見てついつい「運がよかったんでしょ・・・」と卑屈になってしまい、斜に構えつつ読み始めた。

 

で、読んでみて。努力家であること、運がいいことはもちろんなんだけど、それ以上に思ったのが、この人すごく素直な人なんだろうなということ。本文中で、彼女が困ったときに、その時々のメンター、上司、アドバイザー、社内の専門家にアドバイスを求める場面がしばしば出てくるのだが、そんな風に自分が困ったときに素直に誰かに助けを求めることができる(自分の弱みを相手にさらすことができる)、そしてもらったアドバイスを素直に実行できる、というのが、彼女の最大の強みでありここまで成功した理由なんじゃないかな。そしてそんな風にすごく謙虚で素直な方だから、助けを求められた人も真摯にアドバイスを返すし、そうしてそんな彼女から提案があればそれに答えようとするのだろうな。

 

内容的には、私自身すでにそれなりに確立してきたキャリア、仕事の仕方があるので、この本から学んだ仕事術、みたいなのは特にはなかったのだけれど、自分もこの歳で恵まれた環境でここまでアカデミアに残って来られたのだから、若い人たち、特に若い女性研究者の環境作りに貢献せねばならないな・・・との認識は新たにさせられた。同時に、アメリカよりも圧倒的に非合理的で女性蔑視の風潮が根強く、未だに精神論を振り回すしか能のない経営者たちが、経済、政治を牛耳っているという日本の状況を考えて、やれやれ・・・と嘆息してしまったのも事実。まあ若い人たちの意識は確実に変わってきているし、男女平等に向けた意識改革、環境改革は確実に進んでいるとは思いますけどね。これからキャリアを積みたいという若い人にはとてもいい本だと思う。それから、帯のマーク・ザッカーバーグの言葉にもあるように、若い女性を育成する立場にある教育者、経営者はぜひ読むべきですよね。

 

一方で、本書を読んで気づいたアメリカと日本の違いで、とても驚いたことが二つある。その一つが作者の経歴。作者のシェリル・サンドバーグさんは、主席補佐官として米国財務省に勤めたあと、民間企業に移り、グーグル副社長、フェースブック最高執行責任者を歴任なさっている。財務省の首席補佐官って、よくわからないけど多分日本だといわゆる官僚なのでは?で、「官僚が民間企業に移る」ことは日本だと「天下り」と呼ばれるわけで、その言葉からもわかるように、官僚と民間企業との間には大きな壁、世界の違いがある。最近も、灘→東大法→財務省、からの外資系企業、というキャリアの持ち主を「レールから外れた人生」と銘打った記事がどこかの新聞に掲載されて、ネットでは「このエリートコースのどこを見たら『レールから外れた』になるんだ」とその記事のタイトルに対しての否定的なコメントが相次ぎ、私も最初見たときは「はあ?」となってしまった口なのだが、改めて想像するに、日本では官僚から民間に行くのは50代くらいになって、事務次官にはなれないことがわかってからの天下りという認識で、キャリア半ばで民間に移るのは実際その界隈では「異端」なんじゃないかな。一方この『LEAN IN』を読む限り、アメリカでは「財務省から民間企業」はそんなに特別なことでもないらしい。特に「よくあること」と書いてあるわけでもないけれど、反対に「珍しいこと」と書いてあるわけでもないから、多分それなりによくあることなんだろうと思う。アメリカにおける省庁と民間企業の垣根の低さ、エリート官僚から民間企業に移ることに対する認識の違いが、まず驚いたことの一つ。

 

もう一つ驚いたのが、「あとがき」の謝辞。「あとがき」で作者が最初に感謝の言葉を捧げているのがライターのネル・スコーヴェルさんという方なのだが、「読者は本書のどのページを繰っても、彼女の才能と熱意を感じることができるだろう」(p280)とあるのを読んで、「え、この本って実際に書いたのはサンドバーグさんじゃなくてライターの方なんだ・・・」とかなり驚いた。でも改めて考えてみると、「文法的に正しく読みやすい文章を書く」というのは獲得することがかなり困難なスキルの一つであるし、サンドバーグさんはフェースブック最高執行責任者として、そして二児の母として、めちゃくちゃ忙しい立場なわけだから、そこはプロに任せましょうということなのだろう。本文中のどこかにも、作者がプレゼンで困ったときに社内のコミュニケーターのところに駆け込んだという話があって、アメリカの会社にはプレゼンの専門家がいるんだ・・・と驚いた(まあフェースブックみたいな大手に限ったことかもしれないけど)。たしかに合理性、効率性を重視すれば各分野の専門家を雇って分業するということになるわけで、かつ、今や対外的な活動アピールがどの団体においても必要不可欠なわけだけど、そのための資料作りには技術もセンスも必要だ。日本の大学も、財務省文科省が言う「効率化」を進めるのなら、専属のサイエンス・ライター、デザイナーを雇って、プレスリリースや大きなグラントの文章作り、プレゼンスライド作りはその人に手伝ってもらうべきなんじゃないだろうか。

『波紋と螺旋とフィボナッチ』を読んだ

生物のパターン形成に関する研究で有名な、阪大近藤滋先生が一般向けに書かれた本。

 

波紋と螺旋とフィボナッチ (角川ソフィア文庫)

波紋と螺旋とフィボナッチ (角川ソフィア文庫)

 

 

「生物のパターン形成に関する研究で有名な」と書いたけれど、研究分野が違うのと不勉強なのとで、私が近藤先生のことを知ったのは、この著書の元となった「こんどうしげる生命科学の明日はどっちだ!?」を読んだのが最初だったと思う。私が見たのは近藤先生ご自身が運営なさっていたブログ(https://www.fbs-osaka-kondolabo.net/kondo-s-blog)のほうだったけれど、もともとは『細胞工学』のコラムとして連載されていたものらしく、その中の生物発生、パターン形成に関する記事をメインにまとめたのがこの本だ。

 

亀の甲羅の模様、二枚貝や巻き貝の殻の形、シマウマの模様、指紋、そして植物が作るらせん構造など、誰もが見たことのある生物の形、パターンを題材に、それらのパターン形成がどのように起きるのか、数理的にどのように説明できるのかが、近藤先生ご自身の研究も含めて解説されている。冗談交じりの軽い文体もあってとても読みやすいし、なにより、生物の形態がそんな簡単なモデルで説明できるんだ!?という驚きがある。特に第2章、巻き貝と二枚貝のような一見まったく違う形の生き物の発生が同じモデルで説明できるという話は、読みながらめちゃくちゃ興奮した。近い将来、動物の形態形成・発生に関する講義を受け持つ可能性があるんだけど(教務の先生に飲み会の席で打診されただけでまだ未確定)、もし本当に受け持つことになったらこの本はネタとしてかなり使えそうだな・・・。

 

第9章・第10章は近藤先生の青春期。パターン形成とはまったく関係ない免疫学の研究室に在籍しつつも、パターン形成への興味が捨てきれず、自宅で熱帯魚を飼い、魚の成長に伴うパターンの変化を観察してその成果をnatureに出版・・・っていやめちゃくちゃすごいな。こういう「周りの人がなんと言おうと自分の興味の赴くまま突っ走る」系の体験談ってすごくかっこいいんだけど、それだけ非凡な方なんだなあ、と我が身と照らし合わせてやれやれ感を覚えるのはまあいつものことである。

 

ところで「おわりに」によると、上述のブログ「こんどうしげる生命科学の明日はどっちだ!?」は、元は「業界の常識とか、変な風潮を皮肉りつつ笑い飛ばす」(p298)目的で書き始められたらしい。でも専門のパターン形成についての記事も書いてみたらそちらのほうが評判がよく、また近藤先生も書いていて楽しかったということで、次第にサイエンスがメインになったそうだ。私がメインで読んでいたのはパターン形成以外のほうの記事なんだけど、そちらもコラムとしていくつかこの本に掲載されていて、「ジンクピリチオン効果」の話とか「あ、これ読んだ読んだ!」となんだか懐かしくなってしまった。遺伝法則についてのメンデルの元論文(の和訳版)を読んでみた、というコラムも面白かったな。これ、いつか講義で使おう・・・。

『フランケンシュタイン』を読んだ

未読だったSFの古典的名著。本屋さんをふらふらしていたときに見かけて購入。

 

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

 

言わずと知れた、人造人間のお話・・・なんだけど、私、実はこの「フランケンシュタイン」という名前が人造人間そのものの名前じゃなくて、作った博士の名前だったってこと、この本を読んで初めて知りました。しかも、物語の結構中盤にならないとこの名前が出てこないんだよね。

 

この物語、船で旅に出ている弟が姉に向けてあてた手紙の中で、旅の途中で偶然に会ったフランケンシュタイン博士の回想をしたためる(そしてフランケンシュタイン博士の回想の中にさらに人造人間の回想が含まれる)という、かなり複雑な入れ子構造になっている。そんな複雑な構造にもかかわらず、最後まで読者を引き込んで離さない文章力と構成力は、さすが古典的名著という感じ。それに加えて、人間として普遍的な苦悩が書かれていたり、スイスやイギリス・スコットランドの風景の描写が美麗で旅行記としても楽しめたり、そりゃまあ読みつがれちゃいますよね。

 

とは言え、実は私、主人公のフランケンシュタイン博士には徹頭徹尾共感できなかった・・・。自分の好奇心で後先のことを考えず人造人間を作ったはいいけれど、出来上がった人造人間があまりに醜い姿形をしていると見るやいなや逃げ出して、しかも家に帰ってきてその人造人間がどこかに姿を消したとわかったら「こんな幸運にめぐまれるとは信じられない思いでした」「わたしの宿敵は逃げてしまっていたのです。それが確認できたときは、嬉しさのあまり思わず手を叩いたほどです」(p117)って、いやお前責任って言葉知ってる???「宿敵」とか言ってるけどそもそもお前が自分で作り出したものだしこの時点では人造人間は醜い姿を晒しているだけでその他何も悪いことしてないし、世の中に生まれ出たばかりの人造人間も困惑してるだろうし、なによりそんなに驚くほど醜くて巨大な体躯を持った人造人間がふらふらさまよいでたら、他の人が迷惑を被るだろうとか考えないわけ?で、その後、フランケンシュタインが再びあらわれて、自分の家族が殺されたり、その殺人事件によって他の家族が濡れ衣を着せられて処刑されたりすると、今度は「自分は不運な人間」面して苦悩しだす。なんなのこいつ?「不運」とか、それ全部自分が招いたものだよね???

 

しかもこの人造人間、確かに姿形はこの世のものとも思えないほど醜いのだけれど、最初から心根が曲がっているわけではなく、孤独を悲しみたった一人の伴侶を求める悲しい存在なんですよ。それなのにフランケンシュタイン博士は「伴侶が欲しい」というその切なる願いをも叶えてやろうとせず、人造人間を罵倒し続ける。途中、あまりに人造人間がかわいそうで、あまりに博士に対して腹がたって、読み進めるのがつらくなったくらい。

 

最終的に博士の結婚相手が結婚式の夜に殺されてしまうわけなんだけど、それにしたって「結婚式の夜にあいつが現れる」とわかっていながら妻を一人で寝室に行かせ、自分は居間でうじうじ苦悩しているだけという無策・無能っぷりで、殺されてしまった奥さんはかわいそうだけど、まあこんな自分勝手で無能な人間だと気づけずに結婚してしまったあなたにも責任ありますよね・・・としか思えなかった。

 

フランケンシュタイン」が人造人間そのものの名前だと思っている人、私含め結構多いんじゃないかと思うのだけど(藤子不二雄先生の名作『怪物くん』の影響も大きいかも・・・)、この主人公の非人道的振る舞いを見ていると、「フランケンシュタイン=怪物」という認識はあながち間違っていなかったなと思ったのであった。とは言え、こう感じるのも私が現代の人間だからで、「姿形の醜さはこころの醜さを表している」というのが当時の価値観だったんでしょうかね・・・。

『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』『理科系の作文技術』『文章の書き方』を読んだ

しばらくブログ放置。最近読書量もかなり落ちているのだよなあ・・・。とは言えこのブログは自分にとって備忘録的な役割を果たすものなので、読んだ本は記録をつけていきたい。

 

この記事も一ヶ月ほど前に書き始めて、あともう少しというところで放置していた。「レポートの書き方」関係の本を一気に三冊。

 

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

 

 

戸田山さんと言えば、昨年『科学哲学の冒険』を読んだのだけれど、こちらは感想文を書けるほど自分の中で消化できておらず、そのまま放置しているのであった。あれはもう一度読まねば・・・。

 

こちらの『論文の教室』、内容としては「論文書きの準備段階からまとめまで、論文書きのすべてをこれ一冊で解説!」という感じ。まあ私が読んでいないだけで、この『論文の教室』の巻末で紹介されている参考図書だけを見ても、「論文・レポートの書き方」的な本は割と多く世の中に出回っているみたいなのだけれど、その中でも本書の特徴は、まず人文系の論文書きを対象としているところかな。また、準備段階の1ステップとして、「論証はどうやって立てるのか」という説明にかなりのスペースが割かれているのも、クリティカル・シンキングの研究者としての戸田山さんの個性が出ているところなんじゃないだろうか。・・・まあ、上にも書いた通り、この手の本を網羅的に読んでいるわけではないので自信を持って断言はできないんだけど。

 

形式としては、『科学哲学の冒険』と同様、本書『論文の教室』も「大学の先生と学生さんとの対話形式」で、冗談まじりの軽い文体で書かれている。これは、とにかく学生さんに読みやすく、気軽に手にとってもらいたいということなのかな。文献の検索法や、引用文献の記載法、論文の体裁を整える方法など、論文を書く上で知っておくべきさまざまな事柄が網羅されていて、上に「人文系の論文書きを対象としている」と書いたけど、もちろん理系の科学論文を書く上でもとても参考になる。

 

一方、大学教員としての立場で「大学の先生と学生さんとの対話形式」のこの本を読むと、つい「こんなに頭の回転が速くてきっちりレスポンスしてくれる学生さん、めったにいないよ!なんかダメダメ学生みたいに書かれてるけど、これ実際にいたらめちゃくちゃ優秀だから!」という感想を抱いてしまって、ちょっとフラストレーションがたまるんだよな・・・。それから上にも書いた通り、本書は「文章を書くことがとくに好きではなく、むしろ苦手な学生」(p10)を対象としていて、全編かなりくだけた冗談まじりの軽い文章で書かれているんだけど、「文章を書くことがとくに好きではなく、むしろ苦手な学生」が、このB6版300ページの、本を読まない学生さんにとってはおそらくまあまあ分量のある本を読むかなあ、とも思ったり。やっぱり気軽に手に取れるのは新書サイズではないかしら・・・。

 

で、新書版の「論文の書き方」決定版と言えばこちらの本。

 

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

 

 

『論文の教室』巻末に、戸田山さんお薦めの図書が何冊か掲載されていて、その筆頭として挙げられていたのがこの『理科系の作文技術』だった。そう言えばこの本、実家の本棚に置きっぱなしだったなあ、と思い出し、帰省したときに持ち帰ってきた。

 

で、読み始めたのだが、すぐに「この本すごい・・・!」と震撼。これまでに私が論文を書きつつ自力で学んできたことが、すべてこの一冊に凝集されているんですよ・・・!!なんてことだ。実家から持ち帰ったこの本、最後のページに鉛筆で「350」と書かれているところから見ると、どうやら古本屋で350円で購入したらしいのだけれど、古本の割にはきれいな本で、ページをめくった痕跡もなく、これ絶対買ったけど読んでなかったやつだな・・・。いやー、なんで読んでなかったんだろ。読んでいたらこれまでに書いた論文ももう少しましなものになっていただろうと思うと、過去の自分に往復びんたを食らわせたい。

 

タイトルからもわかるように、本書は理系の学生・若手研究者が、論文・報告書を書くときの文章書きのテクニック指南に焦点を当てている。「理系の文章を書くテクニック」が新書一冊に凝集されていることももちろんすごいのだが、この本のすごいところはもう二つあって、その一つが簡潔にして要を得た文章の切れ。この本では、理系の文章を書くときの心得として、

 

(a)主題について述べるべき事実と意見を十分に精選し、

(b)それらを、事実と意見とを峻別しながら、順序よく、明快・簡潔に記述する(p6)

 

の二点が挙げられているのだが、この本の文章自体が、まさにこの心得を体現したものなのだ。一文一文はわかりやすくてするする頭に入ってくるのだが、同時に、「不要なことばは一語でも削ろうと努力するうちに、言いたいことが明確に浮き彫りになってくる」(p9)という姿勢で書かれた文章からは、この文章を書くために費やされた時間の長さ、思索の分厚さがダイレクトに伝わって来て、そうそう簡単には読み飛ばせない迫力に満ち溢れている。

 

もう一つのすごいところは、「文章のテクニック」に焦点を当てているにもかかわらず、それがそのまま著者の人生論になっているところ。それが一番明確に出ているのが第6章の「はっきり言い切る姿勢」なんだけど、この章からは、学者としての、また人間としての著者の厳格な姿勢が感じ取られて、読んでいてめちゃくちゃ感動してしまった。例えば下の文章。

 

本書の対象である理科系の仕事の文書は、がんらい心情的要素をふくまず、政治的考慮とも無縁でもっぱら明快を旨とすべきものである。(p96)

 

「政治的考慮とも無縁」って書ききってしまうところ、すごくないですか?でも研究者って、学者って本来そうあるべきでしょ。それが今は、同じ分野内の研究者でグループを作って馴れ合って、それでお互いいいところに論文通しましょうねとか、そのグループに入ってないといいジャーナルには論文は通らないとか、そんなの間違ってるでしょ。・・・ってまあこれは私が最近経験したり考えてもやもやしていたことなんだけど、それがこの本を読んで晴れるような気がしたのだった。

 

理科系の文章の特徴を「読者につたえるべき内容が事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまないこと」(p5)とし、実際その規律に沿ってこの本は書かれているわけなんだけど、それでもついつい垣間見えてしまう著者の心情にもまた感動した。例えばこれ。

 

ほんとうはデアロウ、ト考エラレルと含みを残した書き方をしたいのである。これは私のなかの日本的共用が抵抗するので、招魂において私がまごうかたなく日本人であり、日本的感性を骨まで刻み込まれていることの証拠であろう。(p94)

 

これ、「私は、むきつけな言い方を避けて飽きてが察してくれることを期待する日本語のもの言いの美しさを愛する」(p96)と書かれたあとの文章なんですよね。こういう、自己を厳しく律している「学究の徒」的な人から、隠そうとしてもどうしても隠しきれず少しだけにじみ出てしまう弱さって、めちゃくちゃ萌えるな・・・と、自分の萌えポイントを再発見した本でもありました。木下先生、一生ついていきます!って、2014年に亡くなってるんですけどね・・・。

 

最後にこの本。

 

文章の書き方 (岩波新書)

文章の書き方 (岩波新書)

 

 

実家の本棚で『理科系の作文技術』の隣にあった(やはり読んだ形跡はなし・・・)ので、一緒に持ち帰って読んでみた・・・のだが、こっちは全然だめでした・・・。昔ながらの「文は人なり」という精神論に、多くの逸話、本の引用をまぶしただけ。この著者は元朝日新聞記者なんだけど、逸話や引用で議論をデコる方法、すごく「朝日新聞記者」って感じだな・・・まあ偏見なんですけど。

 

最後まで読んだら少しは役に立つことが書いてあるのかも・・・と我慢してなんとか読み通したのだが、そして実際、最後の章に「文章は短く」などの実際のテクニックが少し出ては来たのだが、まあ私的には時間の無駄でしたね・・・。途中、「メモはコンピューターなどに残すよりも手書きのほうがよい」的なアナログ発言がドヤ顔で出てくるのも、「文は人なり」の精神論と合わせて旧時代人の発想という感じ。まあでも精神論が好きな中堅・若手の人も根強くいるし、そういう人には好まれそうな本であるな。

『日本近代科学史』を読んだ

ちょっと前に感動のうちに読み終えていたのだが、最近あまりにやる気がなく、感想文を放置していたこの本。

 

日本近代科学史 (講談社学術文庫)

日本近代科学史 (講談社学術文庫)

 

 

この文庫、出版日がごく最近だったので、本書の終盤で「現代(1970年代)」という記述を見るまで、村上先生のご研究の集大成くらいに思っていた。だってそれくらいすごいんですよこの本・・・。

 

第一章から第六章までは、種子島における鉄砲伝来から現代に至るまでの日本の科学史を見ることによって、中国や西洋から輸入された科学技術が日本にどのように根付いて、日本の科学観をどのように変化させていったのかが丹念に解説されている。そしてそれを元に、日本という国の風土、文化についての村上先生の考察が第七章で述べられているのだが、この考察が「ずばっと斬る」感があってめちゃくちゃかっこいい。改めて「まえがき」を見ると、最後に「1968年盛夏」と記されているから、村上先生32歳のときの作品なんですよね、これ。そんな若さで、

 

それでは、日本人は、ほんとうに、血肉から、科学的*1(少なくとも西欧科学的)になったのであろうか。・・・私の答えは、二重の意味で「否」である。

 

とか書いちゃうんですよ。自分が限界まで研究して思考したという事実に基づく学者としての覚悟なしでこんな風に言い切れないですよ。かっこいい・・・そして我が身を振り返って、学者としての格の歴然たる違いを感じる・・・orz

 

しかし一方で、「科学という観点から日本文化を語る」という壮大な試みには、若手研究者の野心、情熱が感じられるし、上述の文章も、新進気鋭の研究者がこれから学者としてやっていくんだという覚悟の表れなのかもしれない。まあいずれにせよ、本書を読んで、日本科学の歴史を学び、新たな観点から日本文化を見ることに蒙を啓かれた喜びを感じるとともに、一応「学者」「研究者」という身分で生計を立てている我が身を振り返ってしまいましたね・・・*2

 

ところで、上述の通り、日本では西欧的科学観・自然観は生まれず、また未だに西欧的科学観が根付くに至っていない、というのが村上先生の考察(というか一般的な考え方なのか?他の方の著作を読んでいないのでなんとも言えない・・・)なのだが、西欧的科学観・自然観が生まれなかったのは日本だけではなく、中国でも同じことらしい。確かに中国って、あれだけ古くから高度な文化を築いていたのに、どうして科学技術という点で西欧に大きな遅れをとってしまったのか、非常に興味深い謎だよなあ。アマゾンで、「中国 科学史」で検索をかけてみたのだが、それほどたくさんは引っかかってこなかった。中国語ならもっとあるのかしら。それとも資料が膨大だったり、はたまた規制が厳しすぎたりしてなかなか研究できないのかしら・・・。

*1:ここは原文では傍点

*2:と言いつつ今は連休でぼけぼけしている。

『シンドローム』を読んだ

読書漫画『バーナード嬢曰く。』の中のSF好き読書家キャラ、神林しおりが漫画の中で薦めていた『シンドローム』が文庫化されるという情報をツイッターで得て、本屋で探して即購入。

 

シンドローム(キノブックス文庫)

シンドローム(キノブックス文庫)

 

 

神林のお薦めに外れなしとは言え、この『シンドローム』、中学生(・・・と、はっきり書いてなかったような気がする。高校生かもしれない)が主人公の青春SF小説ということで、「青春」の迷いをはるか昔に捨て去った身としては、そこまで楽しめるかどうか少しばかり不安だったのだけれど、全くもって杞憂でしたね・・・。主人公が、森見登美彦(文庫版の解説を書いている)の小説に出てくるような、自分の頭の中だけでぐるぐるぐるぐる考えて行動できないようなこじらせ屁理屈男子で、謎の生命体襲来で町が壊されていく中、同級生のちょっと謎めいた女の子、久保田葉子のことばかり考えている。というか、久保田葉子が気になることを自分では認めずに否定しながらも、傍から見るとやっぱり久保田葉子のことばかり考えている。そのへんのめんどうくささが私としては共感度が高く、一気読みでした。

 

一方、森見の腐れ京大生と違うのは、この主人公がまだ中学生(か、高校生)で、おそらく知能もそこまで高くないこと。だから(だと思うんだけど)、何かを考えるときに主人公は同じ語彙ばかり使う。例えば下の文章のように。

 

いかにも、真相は迷妄にあった。迷妄はぼくの衝動に呼びかけ、ぼくから精神的な人間という虚飾を剥ぎ取り、獣の本性をさらそうとする。卑劣で、そして狡猾でもある迷妄は得意のいつわりをおこなうことで、暗い影の下にも精神的な世界があると言葉たくみにささやくが、事実から言えば、そこには精神的な要素などかけらほどにも転がっていない。ただ、獣じみた非精神的な期待と願望だけが渦巻いていて、ひと一人を隠すだけの大きさもない。平岩のように、迷妄の奴隷になってはならない、とぼくは思った。

 

この文章の中だけでも、「迷妄」が4回、「精神的」が4回使われているのだけど、繰り返し同じ語彙を使った改行の少ない長い文章を読んでいるうちに、読者も主人公の思考に絡め取られていくような気分になる。もう一つ、裏表紙の帯にも抜粋してあるのだけど、この小説の登場人物のセリフには面白い仕掛けが施されていて、それがページをめくったときの驚きとともに強烈に印象に残る。印象に残るだけじゃなく、そのセリフが一つのリズムを生み出していて、それがまた読者を物語の世界に入り込ませる仕掛けになっている。視覚的効果を利用して読者を物語の世界に没入させるという方法、小説にはこんな可能性もあるんだな、と思ってすごく新鮮だった。

 

ところでこの「キノブックス文庫」、今回初めて知ったのだが、新しいレーベル(というのか?)なんだろうか。表紙をめくったときのタイトルページのデザインがとても素敵。同じデザインが、カバーを取った文庫本体の表紙にも使われている。文庫本体の表紙の色はきれいな水色で、これまた印象的。中に「キノブックス文庫編集者かわら版」というちらしが挟まれていて、本書出版までの裏話が書いてあったりするのが新しい。『シンドローム』の裏話としては、「六日目」という章の最後の最後、帰宅した主人公が久保田葉子とメールのやり取りをするシーンで、単行本になる段階で重要な一文が削除されたというエピソードが紹介されている。このシーンでは、主人公が送ったメールに対し久保田葉子が「ーおやすみなさい。」とだけ返信するのだが、草稿の段階では主人公が久保田葉子に送ったメールの文面が書かれていたそうだ。どんな文面だったか読者の皆さんそれぞれ思いを巡らせてみてください、というのがこのかわら版の締めなんだけど、七日目のそっけない終わり方からして、そりゃもうあの一言しかないだろうなと思ってにやにやした。