『ワン・モア・ヌーク』を読んだ

今年2月頃読んだ本。

ワン・モア・ヌーク (新潮文庫)

ワン・モア・ヌーク (新潮文庫)

 

 以下の文は、仕事で学生さんに見せるレポート例として書いたものなのだが、記録としてこちらにも載せておく。

 

あらすじ

2015年から2017年にかけて、雑誌「yom yom」で連載されていたこの小説は、当時の近未来(今となっては過去)の、2020年3月6日から10日にかけての東京を舞台としている。登場人物についてのディテールを除き、「ザハ・ハディド案が白紙になった後の新国立競技場の建設現場」が出てきたりと、舞台となる東京の様子は徹底して現実に基づいている(ちなみにザハ案が廃止になったのは2015年夏のことだったので、本書の最初のほうで出てくるその記述は、ぎりぎり廃止発表直後のことだったか、あるいは単行本化にあたり書き直したのだろう)。年・月・日を章のタイトルとし、そして時間・場所を章の中の見出しタイトルとして時系列的に進んでいく物語は、現実度の高い舞台描写とも相まって、まるでサスペンス映画やドラマを見ているかのように進んでいく。

物語の登場人物は、3つのグループを形成している。1つは、モデルであり実業家でもある但馬樹(いつき)とイスラム国で大量破壊兵器の開発を担当していたテロリストのサイード・イブラヒムを中心とするテロリストグループ。但馬が、「東京の中心で、爆風が起きる程度の小さな核爆弾を爆発させることにより、日本人に核の驚異を思い出させ、福島の風評被害に対する反省を促す」ことを目的として、核爆弾の元となる濃縮放射性原子を保有するイブラヒムを東京に呼び寄せるところから物語は始まる。2つめが、長年イブラヒムを追い続けている元IAEA国際原子力機関)エージェントのシアリー・リー・ナズと、シアリーの元同僚であり昔シアリーとともにイブラヒムのテロ行為の被害にあった舘埜(たての)健也を核とするグループ。最後のグループが、外国人不法就労者を取り締まる警視庁の警部補、早瀬隆二とその部下の高嶺秋那を中心とする日本警察で、不法就労の疑いが高いウイグル自治区出身のムフタール・シェレペットに目をつけ、シェレペットと但馬とのつながりから但馬の近辺を調べ始める。この3つのグループの独立した行動、絡み合いによって物語は進んでいく。

 

技術概要

この物語の中心となる科学技術は、タイトルにもある「nuke(核爆弾)」である。第二次世界大戦中にアメリカ合衆国で開発された核爆弾には、ウランを使用するものと、プルトニウムを使用するものとの二種類があり、ウラン型の爆弾は広島に、プルトニウム型は長崎にそれぞれ投下された。

ウランは天然に存在する原子の中で一番重い原子だが、核爆弾は、その重い原子を集めて一気に核分裂を起こさせ、膨大な量のエネルギーを一気に放出させることにより、高温・爆風による被害、そして爆発後に撒き散らされる放射性物質によって投下された場所やその場所に住む人達に、長年続く甚大な被害を与える。「邪悪」としか言いようがない兵器である。ちなみに核分裂とは、中性子と陽子からなる原子核に外から余分な中性子を与えることにより、原子核が分裂して中性子が飛び出すという現象である。核爆弾では、爆発直後に爆弾内に含まれるウランあるいはプルトニウム核分裂が一気に進行するが、ウランの核分裂をゆっくり進行させることにより徐々にエネルギーを放出させ、そのエネルギーを発電に利用するのが原子力発電である。プルトニウムは天然には存在せず、原子力発電においてウラン238(ウランの放射性同位体)が崩壊した結果の産物として得られる*1。物語中では、但馬とイブラヒムによって、プルトニウム239を使用した核爆弾が作成される。イブラヒムは、イスラム国における大量破壊兵器開発中に、遠心分離機を用いたプルトニウム239の高濃度濃縮を行っており、そのシーンが小説の導入部(プロローグ)として紹介されている。このレポートでは、そもそも核爆弾はどのように作られるのか、濃縮プルトニウム239を使った核爆弾は作成可能かどうかについて検証してみたい。

上述の通り、核爆弾にはウラン型とプルトニウム型の2種類がある。両方とも放射性物質であり、外部から中性子を与えると核分裂を起こす。一方で、一度に大きなエネルギーを放出させるためには、より核分裂能の高い一種類の同位体を濃縮する必要がある。天然のウランは、同位体ウラン2種類(ウラン235と238)でほぼ100%を占め、そのうちの99%をウラン238が占めている。核分裂能はウラン235のほうが高く、核爆弾を作るにはウラン235をほぼ100%の濃度に濃縮する必要がある。

ウラン混合物からウラン235を分離する方法が、「遠心分離機」を使用する方法である。遠心分離機は、生命科学の研究室なら一研究室に一台以上はほぼ確実にあるという非常に一般的な機械であり(もっとも、ウランの分離に使われる遠心分離機が、1.5 mLの小型チューブを遠心するときに使う小型遠心機なのか、それとも大きな加速が可能な大型遠心機なのかはわからなかった。おそらく後者であろうが・・・)、質量の違いによって物質を分離することができる。その原子量からわかるように、ウラン235ウラン238よりも軽く、2つの原子の混合物を遠心分離機にかけると、軽いウラン235は容器の上に集まり、重いウラン238は容器の下に沈む。上澄みのウラン235を回収→遠心、を何回も繰り返すことによって、ウラン235をほぼ100%に濃縮することができる

一方のプルトニウムは、同位体としてはプルトニウム239と240の2種類があり、核爆弾に主に使われるのは239である。しかしながら、プルトニウム239とプルトニウム240では質量の違いがほとんどなく、遠心分離で分離することは不可能とされている*2。引用文献1にはプルトニウム239の濃縮法については書かれていなかったが、原子力発電時に生成されるのはほぼプルトニウム239であり240は少ししか含まれていないという記述があることから、プルトニウム型核爆弾を作る際にはプルトニウムの濃縮は必要ないということが想像される(必要だが危険な情報であるため引用文献中に書かれていないという可能性もある)。つまり、核爆弾の元となる放射性原子の種類、濃縮法について本書で紹介されている方法は、フィクションだということになる。もちろん、もし本当のことを書いて、それを真似する人が出て来たら大問題になるので、意図的にそうしたのであろうと考えられる。

一方で物語では、放射性プルトニウムを覆う入れ物として、真球の構造体を3Dプリンターで作る様子が描かれている。現実においても、ウラン型は、ウラン235中性子源となる物質をぶつけるガンタイプの構造を取るが、プルトニウム型の爆弾にはプルトニウム239の他に、核分裂能が高く自ら中性子源となりうるプルトニウム240が少量含まれており、このためガンタイプ構造は取り得ず、代わりに真球のインプロージョン型構造を取る。よって、真球構造の作成に関する物語中の記述は現実に即している。

その他にも、この物語の中では、核爆弾、核にまつわる恐ろしい現実で、これまで私が知らなかった事実が多数紹介されている。その一つが主人公である但馬と行動をともにするシェレペットのエピソードだが、物語では、シェレペットは子供の頃に故郷であるウイグル自治区で中国の核実験の被害に合い、家族を失うとともに自らも後遺症に苦しんでいる。そして実際に中国は、ウイグル自治区で多くの核実験を行っているのだ*3

もう一つが、アメリカにおける放射性同位体を用いた人体実験についてのエピソードだ。これについて物語では「広島や長崎、そしてマンハッタン計画の後にアメリカが自国民に対して行ったプルトニウムの注射実験」(p66)と書かれているのみなのだが、ここの記述にあまりに驚いたので、本書の引用文献として紹介されていた文献4を読んでみた。アメリカ自国民への注射実験は、アメリカ国内でも隠されていた事実であり、それを明らかにしたのがこの『プルトニウム・ファイル』の著者である。核爆弾開発時に、放射性のウランやプルトニウムがガンの治療に使えるのではないかと考えた研究者・医者たちが、主に貧しい患者に対し、その患者自身の許可なしに、プルトニウムを注射したのだが、今では周知の通りプルトニウムは猛毒であり、少量でも注射されれば継続的にその体を蝕んでいく。実際、プルトニウムを投与された患者の中には、すぐに亡くなった方もいれば、後遺症に苦しめられながら何十年も生きた方もいるそうだ*4。驚いたのは、私が昔留学していたカリフォルニア大学バークレー校のすぐそばにあった国立研究機関、ローレンス・バークレー国立研究所も、核爆弾に関する研究、放射性物質を用いた人体実験に加担していたということだ。そしてローレンス・バークレーの国立研究所の公式ホームページに掲載されている「バークレーラボの歴史」のページは、そんなことは一言も書かれていないのだ*5。いかにアメリカが「核兵器の開発とその使用」という暗黒の歴史から目をそむけ続けているかがよくわかる。

 

感想

この物語は、上にも書いた通り、2020年3月6日から10日にかけての5日間の物語であり、時系列的に話が進んでいく。最後は、70%濃縮プルトニウムの爆弾で東京全体の殲滅を狙うイブラヒムと、それを阻止しようとする但馬との息詰まる攻防で、あまりの緊張感に読み進めるのがつらいほどだった(実際何回か本を閉じて休憩せざるを得なかった)。

理由は何であれ、テロを企んだ但馬の行為は許されるものではない。それでも、大事な友人のために行動を起こした但馬は、容姿、知能、決断力、実行力のいずれも抜群に優れた人物としてとても魅力的に描かれていて、物語を読んだ人は必ず但馬に惹かれることだろう。凄惨なシーンもいくつかあるが、読後感はとても爽やかで、何よりも、核爆弾について原子力発電について、自分ももっと勉強しなければ、考えなければと思わされた。