『バーナード嬢曰く。』4巻を読んだ

待ちに待った『バーナード嬢曰く。』の最新刊は神林しおりが表紙。

 

 

ふと本屋で見つけた表紙になぜかとても惹かれ、その時点で2巻目まで出ていたのにとりあえずで1巻だけ買ったらやっぱりめちゃくちゃ面白くて次の週末に2巻を探しまくった。最近私がSFにはまっているのはすべてこの『バーナード嬢曰く。』のおかげ。というか神林のおかげ。

 

主な舞台は高校の図書館で、本はあまり好きではないけれど読書家ぶりたいバーナード嬢こと町田さわ子(しかし彼女は巻を重ねるにつれかなりの読書家になっていく・・・)、町田さわ子の同級生で同じく図書館に入り浸っており「一周回って時代遅れになった流行本を読む」のが趣味の遠藤くん、SF好きの大の読書家神林しおり、図書委員でミステリ好きの長谷川さんの4人が本についてあれこれ話をする。というのがこの漫画の内容で、特にストーリーなどはないのだけれど、とにかく紹介されている本が面白そうですごく読みたくなる。 本に対する姿勢が遠藤に代表されるようなちょっと斜め視線で、そこもすごく好き。今回の4巻では野崎まどの『2』とその前日譚とも言うべき5部作が読みたくてたまらなくなって、 先日本屋さんで注文してしまった(とは言え初めて読む作家さんなのでちょっと怖くて5部作のうち2作しかまだ注文していないのだが・・・小心者の私)。

 

しかし今回ふと思ったのだけど、この『バーナード嬢』、最初は遠藤が町田さわ子のことを気になってる設定だったよね・・・?いつの間にか町田さわ子と神林のいちゃいちゃ要素が強くなってきて、遠藤→町田さわ子要素はすっかり姿を消してしまった感・・・。今回はむしろ遠藤くんに片思いの長谷川さんと遠藤くんの2人きりのいい感じのシーンがあったりして、それもまたよしであった。

 

施川ユウキは今月末『銀河の死なない子供たちへ』の下巻が出る。楽しみ!

『細胞内共生説の謎』を読んだ

研究に教育に、一般向けの本の執筆にと大活躍の佐藤直樹先生の最新作は、葉緑体の細胞内共生について、その研究の歴史と最新成果をまとめた本。

 

 

「最新作」とか言いましたけど、すみません私佐藤直樹先生の本全部読んでるわけじゃないです・・・ていうかみすず書房『生物科学の歴史』は買ったけどまだ読んでなくて、通して読んだのは裳華房の教科書『植物生理学』くらいです・・・。あと、なんならそれほど個人的にお付き合いがあるわけじゃないです・・・。もちろん接点はたくさんあるんだけど、なんとなく怖いイメージなので(私自身が底の浅いへぼサイエンティストなので佐藤先生のような)ちゃんとお話させていただいたことはない気がする・・・。

 

まあそういう個人的なことはそれはそれとして本のレビュー。細胞内共生説と言えば一般的にはリン・マーギュリスが初めて提唱した説で、この生物学に大きな転換をもたらした説はこんにち一般的に彼女一人の業績ということで認められているが、それは正しいのか?史実はどうなのか?ということについて、マーギュリスの原本、そしてマーギュリスの議論の元になったメレシコフスキーの原著論文(ロシア語!)、メレシコフスキーと同時期に細胞内共生説を唱えていた科学者の原著論文にあたって歴史を検証していくのが第一部。私も「細胞内共生説と言えばマーギュリス」だと思っていたし、かつマーギュリスがその細胞内共生説を唱えた主要な著書『細胞の共生進化』(邦訳されているが絶版になっていて中古でのみ購入可)は名前は知っているけどちゃんと読んだことはないというへぼサイエンティストなので、この本がターゲットとしているどんぴしゃの読者だと思われる。

 

第一部の結論を言ってしまうと、細胞内共生説はマーギュリスが独自に確立した仮説ではなく、最初にその説を唱えたのはメレシコフスキーで、当時(メレシコフスキーの人柄も相まって)異端ではあったもののかなり広く知られていた説であり、マーギュリスの役割はその説をまとめ当時の地球科学分野の最新成果とも照らし合わせ、また自身の見解も含めて世の中に流布した、ということに尽きる。また現在は、細胞内共生といえば葉緑体ミトコンドリアだが、マーギュリスが独自の仮説として打ち出したのは葉緑体ミトコンドリアの共生ではなく、有糸分裂を行う上での基盤構造となるスピロヘータの共生であり、それ自体はのちに間違いであることが明らかになっている。一方でマーギュリスは後年、細胞内共生説の提唱が全て自分の功績であるかのように振る舞い、周りもそのように彼女を評価しているが、それは大きな間違いである・・・ということになる。

 

まあその結論は本書を読めば十分納得が行くのだが、しかしそれでも、佐藤先生、マーギュリスに厳しすぎでは・・・?と思われるところが多々あり。佐藤先生も認めているように、当時の夫カール・セーガンの協力があったとは言え、学位を取得したばかりの「弱冠29歳のマーギュリス」(p108)が細胞の出現から真核生物の登場に至るまでの歴史を描き出してみせた(マーギュリスの主著『細胞進化の共生説』ではなくその前の『真核細胞の起源』)のは驚くべきことだし、若く才能を持つ女性を応援する当時の重鎮たちに後押しされたことはもちろん大きかったとは思うけれど、それでも「強烈なリーダーシップで細胞内共生説を確立した」のは称賛に値する。のだが、下の文章はちょっと行き過ぎでは・・・。

 

おそらく、当時の多くのまともな生物学者たちが、この若い女性研究者に魅了されて、その説をなんとか証明してあげたいと考えたように見える。STAP騒動とも似た状況だったのかもしれない。(p126)

 

もちろん「若く才能を持つ女性を応援する重鎮」がSTAP細胞事件を想起させるのはわかりますけどね、でもマーギュリスは別に不正をしたわけじゃないですしね・・・。まあ、本作の文中に触れられているように、マーギュリスの論文には「メレシコフスキー」の綴の間違いや引用スタイルの間違いなど、かなり初歩的なミスがたくさんあるらしく、またデータもなしに推論を述べていたり細かく検証していくと議論にかなり間違いや意味不明の点があったりもするそうで、細かく論文を読んでいくとそういうところが気になって「こいつは研究者としてダメだ」となってしまうんだろうな・・・その気持ちはわかるな・・・。

 

ところでこの第一部の内容は原著論文としても発表されていて、それがこの論文。

 

www.sciencedirect.com

 

そのうち読みます。

 

進んで第二部では、現在の科学において細胞内共生はどのように説明されるのかが、佐藤先生ご自身の研究を含め最新の研究成果をもとに解説される。メインになるのは葉緑体内を構成する脂質の生合成経路の話。脂質生合成経路に関わる酵素の遺伝子配列を用いた系統樹を詳細に解説しながら、葉緑体の共生が、現在の教科書に書かれているようなシアノバクテリアのただ一度の共生とその共生したシアノバクテリアから宿主の細胞核へのDNAの移動というような単純なプロセスを経て起きたものではなく、同時に多数の遺伝子が導入されたことが述べられる。議論は未だに決着が着いておらず、まだまだ研究途上と言う状態で、結論らしきものは特になく、読み終えてすっきりということにはならないのだが、そういう終わり方にしたところがいかにも(私が思う)佐藤先生らしいというか、研究者かくあるべしという感じでにやにやしてしまった。

 

佐藤先生の研究者としての姿勢は文章スタイルにも現れていて、本書を読んでまず思ったのが「文章が簡潔」。この本の前にニック・レーンを読んでいたので更に強くそう感じたのだと思うが、さまざまな修辞や比喩を駆使して悪く言えばだらだら文章が続くニック・レーンのスタイルとは全く違って、必要なことだけを簡潔に・順序立てて書く佐藤先生の文章スタイルはすごく「学術論文」ぽい。東大出版会ならでは、という気もする。

 

ところでこの前の東京出張でお会いした東大新領域の馳澤先生によると、佐藤先生も馳澤先生と同様、今年度いっぱいで退職なさるらしい。もうそんなお年でしたか・・・。しかし退職を控えてますます研究活動も活発な佐藤先生、今後の著作も楽しみにしております。ていうかまずは『生物科学の歴史』読みます・・・。

『いのちを”つくって”もいいですか? 生命科学のジレンマを考える哲学講義』を読んだ

後期に「生命と科学の倫理」なる講義シリーズを一部受け持つことになっているので、書籍部で見かけてこんな本も読んでおいたほうがいいかなと思い買ってみた。

 

いのちを“つくって

いのちを“つくって"もいいですか? 生命科学のジレンマを考える哲学講義

 

 

のだが・・・。私には全然合わなかったです。読んでいてすごいフラストレーションがたまった。

 

そもそもタイトルからして合わなそうだなとは思っていたんですよね。私、「きずな」とか「いのち」とか、ひらがな表記に過剰に精神的な意味合いをもたせるのが嫌いでして・・・。「はじめに」の冒頭に書かれている以下の文章を読んだときにもうすでに、あ、これだめだなと思いました。

 

しかし、その一方で、新しい「治療法」やバイオテクノロジー(生命工学)の発展についてのニュースを聞くと、そこまでやってしまってよいのだろうかと疑問をもつことも多いのです。とくに、人間の生活のあり方を大きく変えてしまうような医学・生命科学の展開には危うささえ感じます。たとえば、見ず知らずの人に自分の子どもを生んでもらう代理母とか、受精卵を選んで親がよいと思う遺伝的特質をもった子どもを生む、などといった例です。(p1-2)

 

いや確かに「受精卵を選んで親がよいと思う遺伝的特質をもった子どもを生む」は議論すべき問題だとは思うけれども、「代理母」問題も同列なんだ!?といきなりびっくりしてしまった。いや、私が代理母問題をよく知らないだけかもしれないけれど、私は少なくともその2つの事例は同列に扱うべき問題だとは思わなかったな・・・。

 

もちろん、違う考え方があること自体はいいのだ。私はこの本に書かれている多くのことに反対だけれど、違う考えを持つことは別に悪いことではないし、そうやって違う意見を闘わせて議論を深めていくべきなのだ。それはそうなのだけれど、私が本書を読んで一番フラストレーションを感じたのは、著者の島薗進さんの考えがどこにあるのか、彼は何を良いとして、どうすべきだと考えているのかがはっきりと提示されていなかったところ。一般論に終始し、「これでいいのでしょうか」と問題を提起するばかりで、「私はこう思う」という態度がはっきりと示されていないところ。「問題提起としての本」という意味であえて自分の態度をはっきりとさせていないのかもしれないが・・・。

 

しかし一方で、「私はこう思う」という個人としての考えが名言されていないのは、筆者が自分の考えが一般的に認められているかのように思い込んでいるからなのでは?という危惧も覚える。私がその危惧を強く感じたのは第5章、156頁の次の文章。

 

 いのちという言葉を、漢字の「生命」で表すとき、それは科学的に観察されうる対象としての、他者や外部から切り離された個別のいのち、という意味が含まれがちです。一方、ひらがなで「いのち」というとき、そこにはひとりひとりの人間のいのちであるという意味と同時に、お互いのいのちがつながり合っている、連帯・共同性のなかにある、ということが含意されていると思います。(p156)

 

いやいや、「含まれがちです」とか言われてもねえ・・・私は少なくとも「生命」という言葉を使うときにそんな過剰な意味は含ませてないから。それに「いのち」の漢字は「生命」じゃなくて「命」ですから。「いのち」とひらがなで書いて連帯・共同性の中にある生命という意味を含ませるという用法、別に一般的じゃないですから。そういうひらがなに過剰な意味合いをもたせたがる一部の人たちはそうかもしれないですけど私はそうじゃないですから。

 

上の文章が、「私は・・・と思います」というように主語がはっきりした文章だったらよかったのだ。それなら「私はそうは思わないけど、この人はそう思うのね」と納得できる。でも主語が入らないこの文章だと、読者としてはそれが一般論であるように感じる。上述の考え方は明らかに一般的なそれではないのに、まるで一般論であるかのように語られてしまうのは、特に生命倫理のようなデリケートな分野では大いに問題であると思う。そして問題は、上の文章の「いのち」という言葉の解釈のみならず、本書で語られる生命倫理に関する全ての話題について、著者は自分個人の考えを一般論と錯覚していないだろうか、ということだ。あとがきによると東大の名誉教授である著者の島薗進さんは、生命倫理委員会の会員として「ヒト胚の研究・利用」に関する議論に参加なさったそうだけれど、そういう重要な立場にある人が、自分個人の意見と他人の意見を明確に区別できないようでは困るんですよね・・・。

 

一方、一般論として語られているかのように見える島薗さん自身の考えは、実はかなり過激なものだ。本書で島薗さんは、「つながりのなかに生きるいのち」という考えを提案しているのだけれど、その例として示されているのが、楢山節考における姥捨山、江戸時代の農村で行われていたという堕胎・子どもの間引きなのだ。いやそれは肯定しちゃだめなんじゃないの・・・?以下の文章など、私にはかなり衝撃だった。

 

 ただ、このように堕胎や間引きを行わざるをえないようなあり方を受け入れていたとしても、その罪を決して悔いなかったわけではないでしょう。(・・・)決してそこに倫理的葛藤がなかったわけではないのだと思います。

 そしてその葛藤は、共同体の人口問題と強く結びついていました。一家に男子が増えていけば、次男・三男など長男以外の者は、成人しても土地を譲ってもらうことはできません。そうすると、彼らは鬱屈した人生を送らざるをえなくなるわけです。また、飢饉などが起これば、生まれる子の数が多いほど共同体自体が苦しい状況に置かれることになります。それは結果的に、共同体としてのいのちを未来へと引き継いでいくことを妨げてしまうことになります。つまり、「一定の土地に住める人数には限界がある」ということが共同体を構成するすべての人によって常に意識され、子孫への配慮、将来世代への配慮がなされていたのです。(p183-184)

 

そして更に衝撃なのが、著者がこのような共同体へ配慮した姥捨山・堕胎・間引きのことを「エコロジーの意識、未来の世代のためにも持続可能な社会をつくらねばならない、という考え方を先取りしている」と言っているところ。エエエ、エコロジー????人を殺すのがエコロジー???望まない妊娠の中絶には私は反対しない立場だけれど、生まれた子どもの「間引き」なんて完全に犯罪じゃないですか。それを認めるばかりか「時代を先取りした考え方」とまで言ってしまうのは本当に著者の倫理観を疑うし、仮に島薗先生の意見を尊重するとしても、共同体のために自分の子どもを手にかけなければならなかった幾多の人の悲しみを「倫理的葛藤がなかったわけではないと思う」などという言葉で片付けてしまうのは本当にありえない。

 

一貫して思うのは、著者の島薗さんは、恵まれた環境に生まれ育った成功者、強者としての立場から、弱者の気持ちなど一つも理解せずにこの議論をしているんだなということ。そして現代社会がどんなものか、ちゃんと見えていないのでは?ということ。例えば第2章、出生前診断着床前診断によって、障害を持つ可能性が高い子どもを予め排除するという行いに対して、島薗さんは批判的な立場を取っているのだが、それに関しての以下の文章。

 

もちろん、個々には経済面や労力の負担がとても困難な場面も出てくるかもしれません。しかし、全体としてそれを支えるに足るだけの豊かさを、私たちの社会はもってはいないでしょうか。(p72-73)

 

・・・いや、今の日本社会は全然豊かじゃないから。東京五輪なんて国の威信をかけたイベントを開催するのに、人を雇うお金がなくてボランティアだけで済ませようとしてるくらいですから。まあこの本が出版されたのは2016年、そのときはまだ東京五輪のボランティア問題はなかったとしても、健康保険や年金が破綻しつつあるという状況はその当時も相当深刻だったはず。この人、パラレルワールドに生きてるのかな???と頭がはてなだらけになってしまった。

 

・・・と、まあ批判的なことばかり書きましたけど、これはあくまでも私個人の意見です。ということであしからず。

『紙の動物園』を読んだ

昨年文庫化され、ピースの又吉絶賛とかで話題になっていたケン・リュウの傑作短編集の1。昨年買ってしばらく積んであったのを読んだ。

 

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

 

 

この文庫本のタイトルにもなっている短編『紙の動物園』が一番最初に収められているんだけれど、これにもういきなりやられてしまった。電車の中で読んでいたからこらえたけど、これ家で一人で読んでたら確実に泣いてた。短編でこれほど心を揺さぶられたのは、レイモンド・カーヴァーの『ささやかだけれど、役に立つこと』を読んだとき以来じゃないだろうか(って、この『ささやかだけれど、役に立つこと』、ストーリーは覚えてるんだけど作者の名前とタイトルが全然出てこなくて、ロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』のエピソードとして使われてたやつってとこから検索かけてやっと思い出しましたよ)。まあ私あんまり短編読まないので母数が少ないんですけどね。読み終わったあとしばらく打ちのめされて次の作品に進めなかったくらい。ヒューゴー賞ネビュラ賞の他に、世界幻想文学大賞も受賞して史上初の3冠に輝いたそうだけれど、それも納得である。

 

作者のケン・リュウ自身は中国生まれで、幼少期に家族とともにアメリカ合衆国に渡り、以来アメリカで暮らしているらしい。アジアで生まれアメリカで育ったというバックグラウンドが作品に大きな影響を与えていることは、『月へ』『結縄』『太平洋横断海底トンネル小史』『心智五行』『文字占い師』などの他の短編にも見て取れる。

 

個人的には生物学的な知見を下敷きにした『結縄』と『心智五行』が好き。『太平洋横断海底トンネル小史』はちょっとフィリップ・K・ディックっぽいなと思いながら読み、『愛のアルゴリズム』ではテッド・チャンの『あなたの人生の物語』を思い出した。

 

しかし考えてみると最近私、こういう心を揺り動かされる系の本や映画に全く触れていませんでしたね。こういうの困るんですよ、のちのち思い出してぼんやり浸ってしまって仕事に差し支えるので・・・。学生の頃は今のマーベルのアベンジャーズシリーズみたいな、あまり考えずに観られてすかっとするエンターテイメントを割とバカにしてたんですけどね、こういうのいいんですよ仕事してる身には。観てる2時間面白くて逃避できて翌日の仕事に響かない。世の中の大人がこういう映画を好む理由がわかりますよね・・・。東野圭吾とか売れてるミステリもそういうとこある。ミステリなので最後にすべてがわかるカタルシスが感じられて読んでいる間は現実逃避できて、で、翌日の仕事に響かない。森博嗣のミステリもそういうところあるよな・・・。

 

とりあえず次は『もののあはれ』(傑作短編集の2)ですかね。

『生命、エネルギー、進化』を読んだ

生協の本屋で買って、しばらく寝かせてあったこの本。

 

生命、エネルギー、進化

生命、エネルギー、進化

 

 

ニック・レーン三作目は、膜で囲まれ、DNAとタンパク質合成機構を持つ生命の起源(Last Universal Common Ancestor: LUCA)が生まれてから真核生物が誕生するまでの物語。恥ずかしながら(というか生物学研究者としてほんとどうなのと自分でも思うのだけれどあえて告白すると)ここらへんの分野をちゃんとフォローできていないのだが、翻訳者斉藤隆央のあとがきによると真核生物の成り立ちについては2つの説があるそうで、すなわち、「古細菌に細菌が取り込まれて真核生物へと進化した」という説と「古細菌の細胞に核膜が進化して真核生物ができたあとにミトコンドリアとなる細菌が取り込まれた」という説。レーン自身は、前者「古細菌に細菌が取り込まれて真核生物へと進化した」という仮説に立脚する立場を取っており、そしてその進化の駆動力となったのがミトコンドリアによって生み出されるエネルギーなのだ、というのが全体を通しての主張である。ちなみにいきなりDNAとタンパク質合成機構を持つLUCAが出てきて、え、そこ飛ばすの??とびっくりしたのだが、LUCAが生まれるまでのストーリーは、第二作の『生命の跳躍』に詳しく書かれているらしい(未読)。

 

「膜で囲まれ、DNAとタンパク質合成機構を持つ生命の起源LUCAが生まれてから真核生物が誕生するまでの物語」と一口に言っても、その中には数え切れないほどの謎があって、本書ではその中のいくつかの謎が進化の過程に沿って紹介され、それぞれ議論されているわけだけれど、その中でも読み応えがあるのが第II部「生命の起源」。生命は、プロトン勾配が受動的に形成され得るアルカリ熱水噴出孔の付近で誕生した、そしてその中からプロトンとナトリウムのアンチポーターを持つ細胞が現れ、これがLUCAとして古細菌と細菌に別々に進化した、というのがざっくりの概要なのだが、University College Londonでのレーン研での最新研究成果(文献引用がないところを見ると、本書出版当時は未発表だったみたい)も盛り込まれていてすごく臨場感がある。

 

ちなみにアルカリ熱水噴出孔における生命の起源についてのレーン研の論文はこれかな。

 

link.springer.com

 

その他のレーンの論文も、レーンのホームページに行くと全部ダウンロードできる仕様になっています。

 

Publications Archive — Nick Lane

 

レーン先生いかつい・・・。

 

いやー、しかし読み終えるのに一週間以上かかってしまい、知的好奇心は多いに刺激されるのだがそれなりに読みにくいよね・・・。レーンの第一作『ミトコンドリアが進化を決めた』でも、なんだかあんまり順序立てられていないというか、「今なんの話してるんだっけ?」と途中でわからなくなってしまうことが多々あった。第一作ではそれぞれの章の最後にまとめとしてレーン自身の仮説が述べられていたのだけれど、その仮説の根拠となる研究結果が特にあるわけでもなさそうなのも違和感があったな。

 

一方本作は進化に沿って話が展開していくので、「今なんの話してるんだっけ?」と戸惑うことはほとんどなかったし、仮説の根拠となる研究成果も詳しく説明されていて第一作よりはかなり読みやすかったのだけれど、それでも時々集中力が保てず字面を追っているだけの自分に気がついて、何ページか戻って読み直す、ということが何回かあった。まあ私の集中力の問題は大きいとは思うんだけど、レーン先生、話したいことが多すぎて書きすぎなのでは・・・?感も否めない。原注がやたらと多くてそれぞれ長い(読んでない)ことにもその「書きすぎ」感が現れていると思う。この人、一を聴いたら百くらいの答えを返してくる人じゃないかな・・・。訳者あとがきの一番最初に「ニックはジャレド・ダイアモンドのような書き手たちを思い起こさせる」というビル・ゲイツの言葉が引用されているのだが、ジャレド・ダイアモンドのほうが格段に読みやすくて文章の書き手としては比較できないと思うな・・・。

 

まあこの感想文を書き上げるのにも苦労してる人間がなんか偉そうに言ってますけど、これだけ込み入った壮大なストーリーを、一般向けの読み物として書き上げることができるというのは本当にすごいことですよね。翻訳者の方のご苦労も忍ばれます。

 

www.fellow-academy.com

 

ところで本書の原題は"The vital question: why is life the way it is?"なのだが、それを『生命、エネルギー、進化』としたのは、第一作の原題"Power, sex, suicide"にならったのかなと思ったり。とりあえず『生命の跳躍』も読もう。

『暗闇・キッス・それだけで』を読んだ

この前近所の図書館に行ったときに森博嗣コーナーを探していて見つけたこの本。

 

 

毎日寝る前にちょっとずつ読んでいたのだが、昨晩佳境に入ってしまい、どうしても最後まで読みたくなって、朝の通勤電車の中で読み終えた。今、もう一冊ハードカバーの本を読みかけで、二冊のハードカバーを抱えつつ通勤。 我ながら非効率的だけど、今読みたい本がハードカバーなんだから仕方ない。

 

森先生の本は、数年前に「S&Mシリーズ」を読み、その後またしばらく間が空いて「Vシリーズ」と「四季シリーズ」を読み、それからまた早数年経った最近、ふと森先生のミステリを読みたい!という気分になり、Gシリーズに手をつけた。で、『キウイγは時計仕掛け』まで読んだのだけれど、その後は二冊が既刊・最新刊はつい最近出版されたばかりで次の作品が出版されるのは二年後・そして次の作品がGシリーズの最終巻、という話を冬木さんのブログで読んで、なんだか次の二冊に手をつけるのが勿体無いというか、最終話に向かっていくGシリーズの仲間たちとのお別れを予想して寂しくなってしまい、まだ次の二冊(『χの悲劇』と『ψの悲劇』)に進めないでいる。

 

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

 

で、じゃあ「Xシリーズ」を読もうか、と思ったりもするのだけれど、なんとなくGシリーズの余韻に浸っていたい気持ちもあり、でも森ワールドからも離れづらく、そういうわけで単発の作品などを図書館で探して読んでいる。以上、この『暗闇・キッス・それだけで』を読んだ理由でした。

 

で、この『暗闇・キッス・それだけで』なんだけど、途中で気づいたのだけれど実は単発の作品ではなかった。同じ主人公の『ゾラ・一撃・さようなら』という作品がシリーズ第一作として発表されていた。とはいえ今のところはこの二冊だけで続刊が出るかどうかもわからないので、ウィキペディアでもシリーズとしての記載はなされていなかったのだけれど。

 

森博嗣 - Wikipedia

 

本作品の主人公は頸城(くびき)悦夫というライター兼探偵。本業は探偵なのだが(たぶん)、出版社勤務の元恋人である水谷優衣の誘いで大富豪のウィリアム・ベックについての本を書くことになり、ベックの別荘がある軽井沢(?と明確には記されていなかった気がする。夏でも涼しい避暑地という設定)に赴く。広大な土地に建てられた豪奢な別荘で起きる殺人事件。それを最後に頸城がさらっと解決する、というのが身も蓋もない感じのあらすじです。

 

主人公の頸城は30代後半くらい、過去にとてつもなくつらい経験をしたらしく、それで人生に対して絶望してしまったような何に対しても常に冷めているような男性。それでいて割とそつなく仕事をこなし、それなりに贅沢な生活も楽しんで、優衣以外の女性には淡白なのになぜかいつもモテてしまい、深入りする気もないのにふとキスなんかしちゃったりする・・・ってこれ村上春樹っぽくない?

 

そう考えてみたら、S&Mシリーズの犀川先生もVシリーズの林さんもGシリーズの海月も、春樹要素あるよね・・・。犀川先生と海月は不特定多数の女性にモテるというわけではないけど、犀川先生は萌、海月は加部谷からそれぞれ好かれているのに両者とも自分から積極的に出ることはなく、いつもなんだか冷めていてどこかつれない。やっぱり森先生の本が売れるのも村上春樹の本が売れるのも、こういう「自分からはあまり積極的に動かないのになぜか異性からモテモテで、物事に動じない常に冷めた人間」てのが人類の一つの理想像だから、なんですかね?

 

そういった思わぬ共通点に気づきつつも、森先生の本は読んでしまうこの不思議(村上春樹は登場人物の気のないモテぶりが全く共感できないし「はあ?」ってなるので読まない。でも『羊をめぐる冒険』は良かった)。理系らしい硬質な感じの文章が好きだからかな・・・。森先生の文章、時々ロマンチストぶりが炸裂していてちょっと赤面してしまうのだけれど、それでも「すべてわかっていて書いてる感」「雰囲気だけで書いてない感」があって好きなんだよな。まあ全部私の主観的意見なんですけど。

『科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義』を読んだ

京大(とははっきり書いていないが)で哲学を教える50代半ばの柏木教授が、学生や同僚との対話の中で哲学を紐解いていく「柏木達彦」のシリーズ第三作。この文庫本自体はもう絶版になっていて、第一作の『柏木達彦の多忙な夏』は最初Kindleで購入して読んだのだが、それがとても面白かった上、これはぱらぱらめくれる紙の本で持っておいたほうがいいやつや・・・と思い、中古で全三冊揃えた。

 

科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義 (角川ソフィア文庫)

科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義 (角川ソフィア文庫)

 

 

本作の第一章では学部1年生への講義の中で「原子論」が語られ、第二章・第三章ではこのシリーズの常連で物理専攻の学生、咲村紫苑との対話の中で「観念論的転回」「言語論的転回」についての説明がなされる。

 

三作通して読んで思ったのは、この柏木達彦シリーズのテーマ、というか、作者の富田先生の研究テーマは、「人智を超える絶対的真理の存在の有無」なのかなと。そして「そんな真理はない」というのが柏木の、ひいては富田先生の結論なのかなと。結局のところ人間は、自分の感覚や思考を通すことによってしか世界を認識し得ない。だから、私たち自身が自分の存在の外にある絶対的真理を見つけようとしてもそれは無理なことだし、そもそもそんなものは存在しない(存在を証明できない)。そしてそんな真理がなかったとしても、人は生きていかねばならない。絶対的真理という指標なしに進む人生は、暗闇の中を進むがごとくつらいものであるかのようにも思えるけれど、そのよすがになってくれるのが「哲学」なのだ、というのが、富田先生や富田先生と親交のあったローティの考えなのかな。少なくとも、私自身はそう理解しました。

 

シリーズを通しての概要はそう理解したものの、議論されている個々の思想については完全に理解できたとは言い難い。とてもわかりやすい文章でつるつる読めてしまうので、一応の理解は追いついたと思うのだが、じゃあ書いてあったことを説明してよと言われたら、すみませんできませんとなってしまうな・・・。

 

しかし得てして入門書を通しての理解というのはそういうものなのかもしれない。わかりやすい文章で読者の理解とさらなる興味を促すのが入門書の役目だとしたら、私にとってこの『柏木達彦』シリーズは哲学の入門書としての役割を十分に果たしてくれた。他にも哲学史など数冊を読み終え、そろそろ専門書を読んでもいい時期だなと思っている。そして専門書を読んで、よくわからなくなったらまた柏木達彦シリーズに戻ってこよう。

 

ところでこの角川ソフィア文庫の『柏木達彦』シリーズ、もともとはナカニシヤ出版から出ていた同シリーズの改訂文庫版なのだが、調べたらナカニシヤ出版からは全5作が出版されている。うち一作目の『多忙な夏』はそのままの名前で、『秋物語』が『プラトン講義』に、『冬物語』が『哲学革命講義』に改題・改訂されて文庫として出版されているのだが、ナカニシヤ出版から出ている同シリーズのうち『春麗ら』と『番外編』は文庫化されていないようなのでこれはこれで単行本を買わねばなるまい・・・。

 

そしても一つ「ところで」、柏木達彦シリーズにおいて柏木と並んで主要な登場人物、咲村紫苑は、富田先生が実際に教えた武仲能子さんという物理学の学生さんをモデルとして描かれている。ちょっとググってみたら、この武仲さんという方、理研の主任研究員として活躍なさっているらしい。さきがけも通っている・・・。その上、学部の頃から科学哲学に興味を持って富田研に通いつめ、自らローティに電子メールで質問したり、ローティが来日した際にはセミナーに参加して質問したり、富田先生と科学哲学関係の論文も出しているそうだ。す、すごい・・・。

 

「ローティに電子メール」「来日時にセミナーで質問」のところは富田先生のホームページに書かれていた。この頁、ググれば外部からアクセスできるんだけど、富田先生のホームページトップからはどうやって辿り着けばよいのかよくわからない。隠れページ?

 

sites.google.com