『狩人の悪夢』を読んだ

年が明けてやっと、仕事関連以外の趣味の本を読む余裕が出てきた。というわけで図書館で借りたのがこれ。

 

狩人の悪夢

狩人の悪夢

 

 

一昨年出版されていた、火村・アリスシリーズの最新刊。著者あとがきによると、このシリーズが始まってからもう25年らしい。ひえー。とは言え二人は変わらず30代前半で、火村は相変わらず京都の下宿に住んでぼこぼこの古いベンツに乗っていて、そしてアリスは売れているのかいないのか微妙なミステリ作家で、付かず離れずの二人の距離も相変わらずなのだけれど、それ以外の時は流れていて本書ではみんなスマホを使っていたりする。登場人物が年をとらない設定の長寿シリーズのご愛嬌であるな。

 

本書の舞台は京都亀岡。対談で知り合った売れっ子ホラー作家、白布施正都に誘われて、亀岡に住む白布施の住まいを訪ねたアリス。その部屋に泊まった者は必ず悪夢を見るという「悪夢の部屋」に一泊した翌日、かつて白布施のアシスタントだった渡瀬が住んでいた家で、右手が切断された女性の死体が発見される。発見されたのは、2年前に心不全でなくなった渡瀬の古い知り合い、沖田依子だった。壁についていた手の跡から、沖田の元彼で沖田のことを付け回していた大泉鉄斎が犯人の第一候補に挙がる。しかし大泉の捜索中、もう一軒の空き家で見つかったのは、左手が切断された大泉の死体だった。一体誰が犯人なのか。なぜ二人は殺されなければならなかったのか。二人の手首が切断されていたのはなぜなのか。その謎を火村がどう解くのか・・・。

 

一方、謎解き以外でも、この火村・アリスシリーズで気になるのが、火村が悪夢を見る理由が明かされるのか、そして明かされたとしてそれによって火村とアリスの関係性がどう変化するのか、というところ。前者については本書では特に進展はなかったものの、最後その火村の悪夢について言及するアリスと、それに答える火村の二人がなんだかいい感じで、じんわり来てしまった。もう私は二人よりもずいぶん歳を取ってしまったけれど、それでもずっとシリーズを読んでいると、火村が大学准教授ということもあって、なんだか以前から知っている友人のような気分になる。そういう感情をキャラクターに抱くことができるのは、シリーズものならではだよなあ。

 

火村・アリスシリーズを読むもう一つの楽しみが、基本となる舞台が関西で、知っている場所が出てくるところ。今回の舞台である亀岡には保津川下りで行ったことがある。白布施の待つ亀岡に向かう前に、白布施担当の編集者である江尻鳩子とアリスが待ち合わせをする京都駅JR嵯峨野線のくだりなんかは、実際の景色を思い浮かべながら読んだ。嵯峨野線は32番ホームだが、京都駅に30番以上もホームの数があるわけではなく、山陰本線の一部についた愛称が嵯峨野線で、山陰本線が発着するホームはサンにかけて30番台が振られているだけ、15番から29番線は存在しない、のだそうだ。知らなかった。

 

有栖川有栖といえば、国名シリーズの最新刊も出ていたんだった。

 

インド倶楽部の謎 (講談社ノベルス)

インド倶楽部の謎 (講談社ノベルス)

 

 

読まねば・・・。

『[図説]偽科学・珍学説読本』を読んだ

昨年買い込んだ疑似科学関連書籍の中で、かなり色物感の強いこの本。

 

図説 偽科学・珍学説読本

図説 偽科学・珍学説読本

 

 

これまで読んできた疑似科学に関する本は、いずれも、現代の疑似科学に対する注意を喚起するのが目的の、学術的な意味合いが強い本だったのだけれど、一方これは現在の知見からすると明らかにおかしい過去の「珍学説」を集めた軽い読み物。「地球平面説」や「優生学」、「錬金術」や、シャーロック・ホームズでも出てきた「骨相学」、イギリスのヴィクトリア朝で子どもの起源を治すためにアヘンやコカインなどの麻薬が使われていたという話などが、さまざまなエピソードを含めて紹介されていて、いくつかはそのトンデモっぷりに「まじか・・・」と苦笑しつつ読んだ。

 

なかでも、「そんなことある???」と驚いたのが、第6章と第12章。第6章は、「精力回復」を謳い文句に、サルの睾丸スライスを人間の陰嚢に移植したセルジ・ヴォロノフ(1866-1951)の話。当然のことながら、このような移植は効果がないばかりか、移植された人たちが死に始めた時点でこのような施術はおかしいということになったらしいが、おかしいとわかるまでにヨーロッパやアメリカで、ずいぶんたくさんの人が施術を受けたらしい。が、驚いたのはそのあとで、このヴォロノフによる移植実験が、サルに感染するSIVからHIVへの進化を促した、という説があるらしいのだ。

 

さらに第12章では、ヒトとチンパンジー、オランウータンとゴリラを異種交配させようとしたスターリンお抱えの生物学者イリヤイワノビッチ・イワノフ(1870-1932)の話が紹介されている。チンパンジーの精液をヒトに注入するというような恐ろしい実験を行っていたらしいのだが、これもまたHIVの進化を促した可能性がある、と書いてある。

 

ほんとかいな・・・と思ってちょっと調べてみたところ、イワノフの話についてはそれに言及した学術的な論文や本は見当たらなかったのだが、ヴォロノフの施術がHIVの進化を促したという説は現在では否定されているという記述が見つかった。さまざまなSIVのDNA配列データを用いた系統樹解析によって、HIVチンパンジーに感染するSIVから進化したということがわかっているらしい。また、SIVからHIVに進化したのはアフリカだということもわかっているそうで、これらのデータは、施術にサルの睾丸を使い、またヨーロッパとアメリカで活躍したヴォロノフHIV進化への関与を否定するものだ。

 

www.ncbi.nlm.nih.gov

 

 

HIVの進化についてはこんな本も出てた。

 

エイズの起源

エイズの起源

 

 

調べたところどうやらうちの大学の図書館にもあるらしいので、今度借りて読んでみようかな。

 

一方イワノフが上述の実験を行ったのはアフリカのギニア、かつチンパンジーを使ったという点ではHIVの誕生との整合性は取れているのだが、どうなんでしょうね。ちょっとググってみたけれどそれっぽい学術論文は見つからず。本書でも、イワノフの実験についてはほとんど情報が残っていないようなことが書いてあるので、議論できるほどのデータがないというのが実際のところかもしれない。

 

それから私、サブリミナル効果については疑いを持っていなかったのだが、本書によるとあれは実際には効果がないことが確認されているそうで。ホメオパシーの起源についても書かれていて、なかなか興味深い本でした。 

『科学はなぜわかりにくいのか』を読んだ

最近ずっと疑似科学関連の本を読んでいて思ったのが、「疑似科学の定義って難しい」ということ。疑似科学に関する本の数だけ、著者の数だけ定義がある。で、それって裏を返せば「科学の定義って難しい」ということ。まあそれだから「科学とはなにか」を考える科学哲学が、一つの学問分野として存在してしまうわけなんだけど・・・。

 

科学はなぜわかりにくいのか - 現代科学の方法論を理解する (知の扉)

科学はなぜわかりにくいのか - 現代科学の方法論を理解する (知の扉)

 

 

というわけでこの本。「科学とは方法論である」という立場から、その方法論についてとても丁寧に解説している。著者の吉田伸夫氏は、著者プロフィールを見ると、ご専門は素粒子論(量子色力学)とのことなのだが(量子色力学ってなんじゃろ・・・?)、「科学哲学や科学史をはじめ幅広い分野で研究を行っている」とある。研究活動を行いつつ、著作活動や大学での講義を通して科学についての啓蒙活動を行っている方なのかな?

 

第1章は、その吉田氏が大学で担当した科学史の講義を元に書かれている。「はじめに」にあるように、半期の講義を、恐竜絶滅の小惑星衝突説に関する1980年のウォルター・アルヴァレズらの論文の解説とその前史、その後の展開の解説に費したそうだ。すごい・・・。いろんなことをちょっとずつ、なら、教科書に沿ってやればいいんだけど、一つのことを掘り下げるとなると、論文やら解説書やらをたくさん読まないといけないから、かなり大変じゃないかな・・・。

 

で、そのアルヴァレズらの論文。Science誌には珍しく、14ページという分量で掲載されたそうで、「白亜紀第三紀の境界に当たる地層にイリジウムが高濃度で含まれる」というデータが小惑星衝突説のもとになっている。ただもちろんそのデータだけでは査読者たちを納得させることはできないわけで、じゃあどうやってアルヴァレズらが「小惑星衝突説」を説得力ある説にしていったのか、本書ではその過程がくわしく解説されている。その仮説と検証の積み重ねは「これぞサイエンス!」という感じで読んでいてわくわくしてしまった。

 

ちなみに元論文はこれですな。会員じゃないと本文は読めないけど。

science.sciencemag.org

 

第2章、第3章では、そのような学説が一般的に受容されるにいたる過程を、さらに詳細に検証していく。第2章では、1997年のnatureに発表されたクローン羊ドリーの論文を例に、科学論文とはそもそもどういうものか、どういう書き方がされているのかが解説されていて、読みながら、そう言えば私も一番最初に科学論文読んだときは結構面食らったな、ということを思い出した。いや、ちゃんと読んでいけばもちろん必要な情報は得られるんだけど、必要な情報以外は得られないというか、非常にそっけないというか、何をどう読んでいけばいいのか戸惑ったなあ。これから卒研で論文を読み始める学生さんも、多分最初は戸惑うんだろうなあ。

 

他にも、進化論や原発事故、抗がん剤などのさまざまな例がそれぞれ掘り下げて解説されていて、それによって科学の限界や、科学における数字の取り扱い方、そして「科学の方法論」が理解できるという流れになっている。読んでいて、すごく真面目で科学に対して誠実な方なんだろうなーと思った。

 

しかし一方で、科学って、科学に対して誠実であればあるほど、地味になったりわかりにくくならざるを得ないものなのかな・・・という印象も受けたんですよね・・・。この本、読んだのは昨年の秋ごろで、感想文を書きかけてなかなか進まなかったのは、面白かったしいろんな人に薦めたいと思いつつも、どう感想文を書けばよいのかよくわからなかったからで。本書のカバーの袖の部分に、「そもそも科学はどうしてこんなにわかりにくいのだろう・・・。そんな素朴な疑問に本書がずばり答えます」と書いてあるのだが、あんまり「ずばり」という感じはしなかったんだよな・・・。しかし派手さやインパクトを狙って本当に端的に「ずばり」書いてしまったら多分それは科学ではなくなるわけで・・・。ジレンマだなあ・・・。

 

ところで以前読んだ池内了氏の『疑似科学入門』で第三種疑似科学として定義されていた複雑系だが、本書では、「科学が深く関与するにもかかわらず、科学の範囲内で結論が出せないケース」として「トランス・サイエンス問題」と呼んでいた。そうそう、トランス・サイエンス。聞いたことあるわ。第三種疑似科学よりよっぽどいいよね。あの『疑似科学入門』、やっぱり問題あるよなあ、と思うのだが、疑似科学本の先駆け的な本で、かつ岩波新書という歴史・権威あるレーベルから出ているだけあって、いろんな疑似科学本で引用されているんですよね・・・むむむ・・・。

『暮らしのなかのニセ科学』『なぜ疑似科学を信じるのか』を読んだ

相変わらず講義準備のために疑似科学ニセ科学関連の本を読んでいる。というわけでまずはこの二冊。

 

暮らしのなかのニセ科学 (平凡社新書)

暮らしのなかのニセ科学 (平凡社新書)

 

 

なぜ疑似科学を信じるのか: 思い込みが生みだすニセの科学 (DOJIN選書)

なぜ疑似科学を信じるのか: 思い込みが生みだすニセの科学 (DOJIN選書)

 

 

疑似科学ニセ科学には、そもそもはっきりとした定義はなく、また科学と疑似科学の間に明確な線引は存在しない。だから疑似科学について書かれた本は、一つひとつの事例について検証していくというスタイルが多い。

 

『暮らしのなかのニセ科学』もそういった個別案件を一つひとつ検証していくというスタイルで、「暮らしのなかの」というタイトルからわかるように、その焦点となっているのは私たちの身近に存在しているニセ科学だ。ガンの民間治療、サプリメント、ダイエット法や健康法、食品添加物や水ビジネス、マイナスイオン、そしてEM菌について、具体的な人名・会社名・商品名を挙げて検証し、批判し、そして読者に注意を促している。

 

ちなみに左巻健男氏の本書における「ニセ科学」の定義は、

 

ニセ科学は、「科学っぽい装いをしている」、あるいは「科学のように見える」にもかかわらず、とても科学とは呼べないものを指します。(p3)

 

となっている。

 

本書には、そのようなニセ科学から国民を守るための法律(薬事法あらため薬機法、正式名称は「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」とか、「不当景品類及び不当表示防止法」略して景表法)に関する説明もあって、とても勉強になった。特にEM菌問題。ツイッターでよく見かけている割には詳細をよく知らなかったのだけれど、本書でEM菌が出てきた経緯やその危険性について読み、改めて怖くなった。某サイエンスライターの方が神経質になる理由もわかるな・・・。

 

そしてもう一冊の『なぜ疑似科学を信じるのか』。本書の著者である菊池聡氏は心理学が専門で、「疑似科学に騙される人の心理」について深く分析しているという点が、他のニセ科学関連の本にはない本書の特徴。上にも書いたように、疑似科学については明確な定義がなく、それぞれの著者によってそれぞれの定義付けがなされている。だから中には、例えば以前読んだ池内了氏の『疑似科学入門』における「第三種疑似科学」の扱いなど、「ちょっとそれは私には受け入れがたい」と思われる記載もある。一方、菊池聡氏の「疑似科学」の定義は

 

疑似科学とは、科学のように見えても「科学」とはいえない方法論やフレームワークに特徴があり、そこから生み出された次節にしがみつく一種の「信念」として考えるべきである。(p225) 

 

であり、「どんな研究対象もアプローチによっては疑似科学化する」という主張は、私的には非常に共感度が高く、また同時に本書を読みながらいろいろ反省させられることも多かった。特に、第9章に紹介されている「しろうと理論」。これが疑似科学に入るかどうかは別として、自分の経験に基づいて人の心理を判断し「あの人はこういう人だ」と決めつけるような行動、私も最近取りがちだなあ・・・。私個人の少ない経験に基づいた、主観の入った判断を一般化して決めつける前に、自分自身を常に疑う謙虚さを忘れないようにせねばならないな・・・。

『メディア・バイアス』を読んだ

毎日新聞記者で、食の安全などに関する著作があるフリーランス科学ジャーナリスト松永和紀さんの2007年の著作。

 

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)

 

 

タイトルの「メディア・バイアス」とは、「多種多様な情報の中から自分たちにとって都合の良いもの、白か黒か簡単に決めつけられるようなものだけを選び出し、報道」する、「メディアによる情報の取捨選択」(p6)の歪みのことだそうだ。「メディア・バイアス」で問題になった例として私が思いつくのは、本書でも取り上げられている「発掘!あるある大辞典II」の納豆ダイエット。確か、番組内で紹介されていた科学的なデータが捏造だったことがバレて、結局番組終了に追い込まれたんじゃなかったかな・・・。

 

www.excite.co.jp

 

「あるある」のようにデータ捏造や、不正確な報道が問題になった健康番組の例、自然派志向の人たちが陥りやすい有機農法への妄信的な信頼や添加物への反発、昔はよかったという懐古主義、そしてマイナスイオンや「水からの伝言」のようなニセ科学まで、メディアの報道がきっかけとなって広まった嘘について、さまざまな方向から分析して検証しているのがこの本。

 

この本を読んで思ったのは、著者の松永さんという方は、すごく真面目で謙虚で自制心の強い方なんだなーということ。新聞記者だった頃は「今から思えば反省するしかない記事を書いたことがある」(p7)と反省なさっているけれど、その反省があるからこそのこの謙虚さなのかな。いやもともとの性格かな・・・。自制心の強さは、ジャーナリストとして中立であらねばという使命感から来ているのであろうな。

 

第4章「警鐘報道をしたがる人々」に詳しく書かれているように、「「危なくない」を伝えるためには、さまざまな角度から微細に検討し、「大丈夫」「大丈夫」と証拠を積み上げて」(p92)いかねばならない。 しかし、そうやって証拠を積み上げていくためには、いろんな論文を読んだり専門書を読んだり、また専門家に取材をしに出張なんかも必要になってくる。フリーランスのジャーナリストだと、「交通費を出版社が出してくれれば御の字。論文や専門書の購入費までは面倒みてくれません。結局、まともに情報収集すると、原稿料はほとんど残らない、という事態になります」(p240)「フリーのライターになって数年は収入があっても取材経費を引けばほとんど残らない、いえ赤字になってしまう」という状況だそうな。大変・・・。

 

一方、報道に携わる会社員なら、「科学的根拠がある「危なくない」記事よりも、世間を驚かす「危ない」記事を書いたほうが、社内的な評価ははるかに高い」(p91)し、またフリーランスなら一企業の広報だけに取材して、企業べったりの記事を書いても、原稿料は同じなのだから、まあそりゃ適当な記事が多くなるよね・・・。

 

この本で取り上げられているメディア・バイアスやマスメディアの中の人々の不勉強さは、私のツイッタータイムラインでも頻繁に話題になっている。もちろん中にはしっかり勉強して取材して科学者にも信頼されるような記事を書いてらっしゃるような方もいらっしゃる(STAP騒動の話を本にした毎日新聞記者の須田桃子さんとか)けれど、そうでない人、偏向的な記事が圧倒的に多いのも現状。

 

そんなマスメディアの現状は変えられないのか?偏向的な報道を止めるにはどうしたらいいのか?という質問に対して松永さんは、「恥ずかしいことですが、マスメディア自身に改善能力はないかもしれません。」(p4)と、かなり悲観的な見解を述べられている。そのような状況を踏まえた上で、情報の受け取り手が自分で分析して判断することが重要だと読者に呼びかけている。

 

ただ、昨年の「ガッテン!」の例なんかを見ると、マスメディアも少しずつだが改善されているのかなとも思ったり。詳しいことは下の記事に書いてあるけれど、「ガッテン!」で放送された内容が危険だとして話題になり、直後に関連学会から異議が申し立てられ、翌週の番組最初でアナウンサーによる謝罪がなされたのは結構はっきり覚えてる。

 

www.zakzak.co.jp

 

まあ、健康にすぐに害が出るわけではない「酵素飲料」なんかは、未だに自然派を辞任する健康マニアの方には支持されているようで、昨日もラジオで宣伝されているのを聞いたし、マスメディアが改善されているというより、科学者たちが声を上げるようになってマスメディアが対応せざるを得なくなったというのが正解、という見方もあるな・・・。

 

わかりやすく柔らかい言葉遣いの文章からも、多くの人々に伝えなければ、という使命感を感じる。松永さんのツイッター、フォローさせていただきました。

 

twitter.com

『疑似科学入門』を読んだ

最近読書が全然進んでいない。まあいろいろ仕事が立て込んでいて疲れているんだろうけど、だからと言って小説で現実逃避、という気分になるわけでもなく、仕事関連の本を読みかけてはまた新しい本を読んだりでなかなか読書感想文も書けずに11月ももう半ば。

 

疑似科学入門 (岩波新書)

疑似科学入門 (岩波新書)

 

 

1月の講義でニセ科学の話をしようと思って、関連の本をたくさん買い込んだ。その中の一冊がこちら。2008年に第1刷が出版されて、その後17刷まで重ねている。著者の池内了先生はもともとは天文学の研究者で、巻末の略歴を見ると、京大理学部で博士号を取得なさったあと、京大・北大・東大・国立天文台・阪大・名古屋大・早稲田大と異動してその後総研大の教授になられたらしい(現在は名誉教授)。異動多くね・・・?

 

私は不勉強なので天文学のお仕事は存じ上げないのだが、一般向けのサイエンス本やサイエンスに関するエッセイ、評論を多数書かれているので、おそらく「池内了先生を知っている人」を母集団として「天文学者としての池内了を知っている」「エッセイスト・著作家・評論家としての池内了を知っている」の2つにグループ分けした場合、後者のグループが圧倒的に大多数を占めるに違いないきっとそうに違いない。で、まあ著作家として有名な方だし岩波新書だし、ということで、疑似科学関係の勉強をするならまずはこの本、という位置づけになっているのではないか。17刷まで重ねているというのはそういうことではないかと予想する。

 

で、この本のタイトルにもある「疑似科学」。そもそも「疑似科学」とはなんなのか、ということについて、本書では「科学の本筋から離れた非合理を特徴とする」という定義付けがなされている(「はじめに」iv)。「ニセ科学」「トンデモ科学」などと呼ばれることもあるけれど、そういうものもまとめて「疑似科学」と呼び、そのさまざまな例について検証し、騙されないように注意喚起を促しているのがこの本だ。

 

検証するにあたって本書は「疑似科学」を3つのグループに分類するところから始めている。「第一種疑似科学」は、「現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)に漬け込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの」(「はじめに」v)として、占い・超能力などを含む。第一章ではこの第一種疑似科学についてさまざまな例を挙げ、なぜそのような疑似科学が生まれるのかそしてなぜ人はそのような疑似科学にはまるのかを、人間の認知や判断が犯すさまざまなエラーに基づいて検証する。

 

次の「第二種疑似科学」は、「科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの」(「はじめに」v)。怪しいビジネスと結びついていることが多く、したがって一番問題視されていて、本書以外の疑似科学についての本が主に取り上げているのもこのグループだろう。その問題意識もあってか、本書では第二種疑似科学をさらに細かく3つのグループに分けて説明している。すなわち、「(a)科学的に確立した法則に反しているにもかかわらず、それが正しい主張であるかのように見せかけている言説」。永久機関ゲーム脳、水の記憶、などがこのグループに属する。「(b)科学的根拠が不明であるにもかかわらず、あたかも根拠があるような言説でビジネスのたねとなっているもの」。最近話題になっていた水素水なんかはこの典型だろう。「(c)確率や統計を巧みに利用して、ある種の意見が正しいと思わせる言説」。江戸時代にはがんはなかった、だから江戸時代の生活に戻ればいいのだというような主張を見たことがあるけれど、それもこの(c)に含まれるのだろうな(江戸時代には今ほど長生きする人はいなかったからがん患者も少なかったというのが本当のところ)。

 

さて上記2つのグループは一般的にも「疑似科学」として受け入れられているものだと思うが、最後の「第三種疑似科学」は本書オリジナル。「「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの」(「はじめに」vi)と定義され、地球温暖化地震予知、電磁波、遺伝子組み換え作物などがこれに含まれるとして第四章で議論されている。

 

・・・がしかし、池内先生自身も、「第三種を疑似科学と呼ぶべきかどうかについても異論があるかもしれない」(「はじめに」vii)「正直に言って、第三種の範疇に入るものが果たして疑似科学と断言できるかどうか、私自身疑っているところもあった」(「あとがき」p200)と書かれており、私自身、本書を読んでいて、これらを疑似科学に含めることにはかなりの違和感を覚えた。特に、遺伝子組換え植物のこと。

 

最初に明確にしておくと、私自身は植物科学に携わる身として遺伝子組換え作物擁護派である。将来的に予想されている食糧難、エネルギー不足を救う手段の一つとして、遺伝子組換え植物が有効であることに疑いはないと思っている。そして池内先生も、遺伝子組換え植物を含む複雑系が「疑似科学である」と断定しているわけではない。「現代の科学ではまだ結論が下せない問題が多くあり、シロともクロとも単純に断じられない」「ところが、どちらかの答えを早く得たいという人間心理に迎合するかのように、一つの事実だけを針小棒大に取り上げてシロクロを付けたがる」(「はじめに」iv-v)それによって疑似科学化してしまう可能性がある、と言うのが池内先生の主張だ。

 

自分が感じた違和感の原因を、この感想文を書きながらここ数日考え続けて、この第三種疑似科学についての定義こそが私が第三種疑似科学について感じる違和感の原因なのだと思い至った。それは突き詰めれば「対象が疑似科学であるかどうかを誰が判断するのか?」という疑問だ。第一種、第二種疑似科学を「疑似科学である」と判断するのは、明らかにサイエンス的思考法のトレーニングを積んだ科学者である。はっきりとそう書かれているわけではないけれど、それと断定できる文章はそこここにある。例えば、科学か疑似科学かを見分ける方法として「反証可能である」(p17)ことを挙げているところ。科学のトレーニングを積んだことのない人は「反証可能である」ことが科学と疑似科学を分ける一つの基準になるなんて知らないでしょ。また、「科学至上主義や反科学に走ってしまう根本には、自分を客観的に観察し、社会的な視点で自らを省察する訓練に欠けているということがある」(p102)という文章。「自分を客観的に観察し、社会的な視点で自らを省察する訓練」を積んでいるのが科学者であることは明らかだ。

 

一方で、第三種疑似科学において「一つの事実だけを針小棒大に取り上げてシロクロを付けたがる」のは科学者ではない。科学者は世の中に「100%」と言い切れることはないとわかっているから遺伝子組換え作物を「100%安全」なんて断定することはない。遺伝子組換え作物の例で言うと、シロクロつけたがるのは科学的トレーニングを積んでいない消費者だ。つまり、池内先生が定義する第三種疑似科学疑似科学化しているのは、科学的トレーニングを積んでいない人たちだということだ。でもそうだとすると、科学的論理的根拠なしに感情的な判断のみで「疑似科学」とレッテルを貼られる可能性があるということで、それは科学者としては容認できないでしょう。・・・というわけで、第三種疑似科学疑似科学の範疇に含めることには私は異議を唱えたい。

 

終章で池内先生は、疑似科学に騙されないためには自分の頭で考えること、なんでもすぐに信じるのではなく、まずは疑い、できれば一次資料に当たり、ちゃんとした手法でデータが取られているかどうか、そのデータがちゃんとした科学的手法にのっとって解析されているかどうかを確認することだと言っている。この本を読んだ人が、遺伝子組換え作物についても、本書で取り上げられているから疑似科学だと単純にレッテルを貼るのではなく、本当に「疑似科学」なのかどうか考えて判断してくれるとよいのだが・・・。 

  

そして終章で述べられている「疑似科学の処方箋」にも少し意見が。疑似科学かそうでないかを判断するにはデータ取得の正当性や解析法の正当性を見極める力が必要で、そのような力をつけるためのトレーニングの重要性については、池内先生自身も途中の章で触れている。にもかかわらず終章において教育の重要性については、疑似科学について小中学校で教えるのもよい、毅然と話せば子供にもわかる、程度にしか書かれていないのだ。でも上述の通り、途中の章では疑似科学が嘘かどうかを判断するのにサイエンスのトレーニングが必要だと書かれているわけで、「わかりやすく、毅然と話せば子どもたちにはわかる」(p183)というのは矛盾があるし、そもそもあまりにナイーブな主張ではないだろうか。

 

というわけで、17刷も版を重ねている本書なのだが、「疑似科学」の入門書としてはあまりおすすめできない、というのが、植物科学者としての私の結論。まあ読者が自分の頭で論理的に考えてくれる人なら問題ないんですけどね。

『マクニール世界史講義』を読んだ

最近科学史に興味を持ち始め、これまで何冊か新書・文庫で入門的な本を読んだ。で、思い至ったのが、「科学史は歴史。世界史をちゃんと抑えておかないとだめ」という当たり前のこと。私、そう言えばセンター試験で世界史は一応受験したけれど、でもそれほど真剣にやっていなかったのでぼろぼろだった(同時受験した日本史はそれなりに良かったので、二次試験も合わせてなんとか大学は合格できた)。その後大学に入ってから、教養課程で西洋史を受講した覚えがあるが、そこでもあまり真剣に勉強した記憶はなく、世界史においていつ何が起こったかは常に曖昧なまま今まで生きて来てしまった。しかしもはやごまかし続けることはできない。何しろこの冬には一コマとは言え科学史で講義をしないといけないのだから。

 

というわけで、手始めにしばらく前に買ってあったこの本をようやく読んだ。

 

マクニール世界史講義 (ちくま学芸文庫)

マクニール世界史講義 (ちくま学芸文庫)

 

 

マクニールと言えばしばらく前に流行った『世界史』なのだが、なぜゆえその『世界史』ではなくこの『世界史講義』なのかと言えば、上下巻の『世界史』の分厚さにひるんでしまったからです。だって世界史あんまり好きじゃなかったんですもの・・・。で、すぐそばにあったこの『世界史講義』を見て、お、薄くて読みやすそうじゃん、と手に取った次第。・・・しかしこの判断はずばり不正解でしたね・・・。

 

というのもこの本、マクニール先生の歴史研究の集大成的な小論を3編まとめたもので、第一章は18世紀から19世紀に至る世界の変容を「フロンティア」という観点から、第二章は文明が生まれた最初から現代に至るまでの人類の歴史を「寄生」という観点から、そして第三章は主に20世紀以降しばしば起きている経済破綻を歴史上何回も見られた「文明の破綻」と照らし合わせながら、それぞれ俯瞰して検証するというもので、基本的な歴史に関する知識、そしてその歴史がどう研究されてきたかという歴史学に関する知識がないと、その面白さが十分味わえないというか、要するに「ぽかーん」となってしまうのだ。

 

例えば最初の章。フレデリック・ジャクソン・ターナーアメリカ史に関するフロンティア論、そしてそれをさらに世界的規模に押し広げて議論したウォルター・ウェッブのグレート・フロンティアという概念に基づいて、その概念を検証しつつ歴史を紐解いていくという流れになっている。で、フロンティアは「自由・平等」を核とする概念(多分)なのだけれど実際は奴隷の存在があってこそ成り立ったものなのだよというのがどうやらマクニール先生独自の考えなのだけれど、そもそもその「フロンティア」の概念が自明のものとして語られていて文中でちゃんと定義されているわけではないので、マクニール先生の考えの新しさが伝わりにくいのだ。

 

第二章もそんな感じ。宿主(人間)を食い物にする病原体の生態を「ミクロ寄生」、一次産業に携わる人間からの搾取によって生活基盤を成り立たせる支配者の生態を「マクロ寄生」として、ミクロ寄生が歴史にどのような影響を及ぼしてきたか(これはジャレド・ダイアモンドの『銃・病原体・鉄』で読んだので割と馴染みあるテーマ)、そしてマクロ寄生の形が歴史を通してどのように変化してきたかを探るという論文なのだが、マクロ寄生については最初は官僚と支配される側だけだったのが途中で商人も出てきて、一方でそこらあたりから「マクロ寄生」という言葉が文中で使われなくなってきてしまい、商人は寄生される側なのどっちなの?と謎のまま読み続けるという・・・。こういう本を読むと私はいつもジャレド・ダイアモンドと比較してしまうんだけど、やっぱりダイアモンド先生はめちゃくちゃ文章がうまいんだよな・・・。

 

というわけで、どこが面白いのかあまりよくわからない、文章もあんまり読みやすくない、というのが読み終えたときの印象だったのだが、これを読んだあと、今『もう一度読む山川世界史』を読み進めていまして、これがめちゃくちゃ面白いんだけど、「あ、これマクニール先生が言ってたやつかな」なんて考えながら読むとまた蒙が啓かれる思いなのですよ。なので、本には読む順番があるし、ある程度の知識がないと面白さがわからないものなのだな、と改めて思ったというのが結論。『世界史』上下巻も買ったので、山川世界史のあとで読みます。