『疑似科学入門』を読んだ

最近読書が全然進んでいない。まあいろいろ仕事が立て込んでいて疲れているんだろうけど、だからと言って小説で現実逃避、という気分になるわけでもなく、仕事関連の本を読みかけてはまた新しい本を読んだりでなかなか読書感想文も書けずに11月ももう半ば。

 

疑似科学入門 (岩波新書)

疑似科学入門 (岩波新書)

 

 

1月の講義でニセ科学の話をしようと思って、関連の本をたくさん買い込んだ。その中の一冊がこちら。2008年に第1刷が出版されて、その後17刷まで重ねている。著者の池内了先生はもともとは天文学の研究者で、巻末の略歴を見ると、京大理学部で博士号を取得なさったあと、京大・北大・東大・国立天文台・阪大・名古屋大・早稲田大と異動してその後総研大の教授になられたらしい(現在は名誉教授)。異動多くね・・・?

 

私は不勉強なので天文学のお仕事は存じ上げないのだが、一般向けのサイエンス本やサイエンスに関するエッセイ、評論を多数書かれているので、おそらく「池内了先生を知っている人」を母集団として「天文学者としての池内了を知っている」「エッセイスト・著作家・評論家としての池内了を知っている」の2つにグループ分けした場合、後者のグループが圧倒的に大多数を占めるに違いないきっとそうに違いない。で、まあ著作家として有名な方だし岩波新書だし、ということで、疑似科学関係の勉強をするならまずはこの本、という位置づけになっているのではないか。17刷まで重ねているというのはそういうことではないかと予想する。

 

で、この本のタイトルにもある「疑似科学」。そもそも「疑似科学」とはなんなのか、ということについて、本書では「科学の本筋から離れた非合理を特徴とする」という定義付けがなされている(「はじめに」iv)。「ニセ科学」「トンデモ科学」などと呼ばれることもあるけれど、そういうものもまとめて「疑似科学」と呼び、そのさまざまな例について検証し、騙されないように注意喚起を促しているのがこの本だ。

 

検証するにあたって本書は「疑似科学」を3つのグループに分類するところから始めている。「第一種疑似科学」は、「現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)に漬け込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの」(「はじめに」v)として、占い・超能力などを含む。第一章ではこの第一種疑似科学についてさまざまな例を挙げ、なぜそのような疑似科学が生まれるのかそしてなぜ人はそのような疑似科学にはまるのかを、人間の認知や判断が犯すさまざまなエラーに基づいて検証する。

 

次の「第二種疑似科学」は、「科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの」(「はじめに」v)。怪しいビジネスと結びついていることが多く、したがって一番問題視されていて、本書以外の疑似科学についての本が主に取り上げているのもこのグループだろう。その問題意識もあってか、本書では第二種疑似科学をさらに細かく3つのグループに分けて説明している。すなわち、「(a)科学的に確立した法則に反しているにもかかわらず、それが正しい主張であるかのように見せかけている言説」。永久機関ゲーム脳、水の記憶、などがこのグループに属する。「(b)科学的根拠が不明であるにもかかわらず、あたかも根拠があるような言説でビジネスのたねとなっているもの」。最近話題になっていた水素水なんかはこの典型だろう。「(c)確率や統計を巧みに利用して、ある種の意見が正しいと思わせる言説」。江戸時代にはがんはなかった、だから江戸時代の生活に戻ればいいのだというような主張を見たことがあるけれど、それもこの(c)に含まれるのだろうな(江戸時代には今ほど長生きする人はいなかったからがん患者も少なかったというのが本当のところ)。

 

さて上記2つのグループは一般的にも「疑似科学」として受け入れられているものだと思うが、最後の「第三種疑似科学」は本書オリジナル。「「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの」(「はじめに」vi)と定義され、地球温暖化地震予知、電磁波、遺伝子組み換え作物などがこれに含まれるとして第四章で議論されている。

 

・・・がしかし、池内先生自身も、「第三種を疑似科学と呼ぶべきかどうかについても異論があるかもしれない」(「はじめに」vii)「正直に言って、第三種の範疇に入るものが果たして疑似科学と断言できるかどうか、私自身疑っているところもあった」(「あとがき」p200)と書かれており、私自身、本書を読んでいて、これらを疑似科学に含めることにはかなりの違和感を覚えた。特に、遺伝子組換え植物のこと。

 

最初に明確にしておくと、私自身は植物科学に携わる身として遺伝子組換え作物擁護派である。将来的に予想されている食糧難、エネルギー不足を救う手段の一つとして、遺伝子組換え植物が有効であることに疑いはないと思っている。そして池内先生も、遺伝子組換え植物を含む複雑系が「疑似科学である」と断定しているわけではない。「現代の科学ではまだ結論が下せない問題が多くあり、シロともクロとも単純に断じられない」「ところが、どちらかの答えを早く得たいという人間心理に迎合するかのように、一つの事実だけを針小棒大に取り上げてシロクロを付けたがる」(「はじめに」iv-v)それによって疑似科学化してしまう可能性がある、と言うのが池内先生の主張だ。

 

自分が感じた違和感の原因を、この感想文を書きながらここ数日考え続けて、この第三種疑似科学についての定義こそが私が第三種疑似科学について感じる違和感の原因なのだと思い至った。それは突き詰めれば「対象が疑似科学であるかどうかを誰が判断するのか?」という疑問だ。第一種、第二種疑似科学を「疑似科学である」と判断するのは、明らかにサイエンス的思考法のトレーニングを積んだ科学者である。はっきりとそう書かれているわけではないけれど、それと断定できる文章はそこここにある。例えば、科学か疑似科学かを見分ける方法として「反証可能である」(p17)ことを挙げているところ。科学のトレーニングを積んだことのない人は「反証可能である」ことが科学と疑似科学を分ける一つの基準になるなんて知らないでしょ。また、「科学至上主義や反科学に走ってしまう根本には、自分を客観的に観察し、社会的な視点で自らを省察する訓練に欠けているということがある」(p102)という文章。「自分を客観的に観察し、社会的な視点で自らを省察する訓練」を積んでいるのが科学者であることは明らかだ。

 

一方で、第三種疑似科学において「一つの事実だけを針小棒大に取り上げてシロクロを付けたがる」のは科学者ではない。科学者は世の中に「100%」と言い切れることはないとわかっているから遺伝子組換え作物を「100%安全」なんて断定することはない。遺伝子組換え作物の例で言うと、シロクロつけたがるのは科学的トレーニングを積んでいない消費者だ。つまり、池内先生が定義する第三種疑似科学疑似科学化しているのは、科学的トレーニングを積んでいない人たちだということだ。でもそうだとすると、科学的論理的根拠なしに感情的な判断のみで「疑似科学」とレッテルを貼られる可能性があるということで、それは科学者としては容認できないでしょう。・・・というわけで、第三種疑似科学疑似科学の範疇に含めることには私は異議を唱えたい。

 

終章で池内先生は、疑似科学に騙されないためには自分の頭で考えること、なんでもすぐに信じるのではなく、まずは疑い、できれば一次資料に当たり、ちゃんとした手法でデータが取られているかどうか、そのデータがちゃんとした科学的手法にのっとって解析されているかどうかを確認することだと言っている。この本を読んだ人が、遺伝子組換え作物についても、本書で取り上げられているから疑似科学だと単純にレッテルを貼るのではなく、本当に「疑似科学」なのかどうか考えて判断してくれるとよいのだが・・・。 

  

そして終章で述べられている「疑似科学の処方箋」にも少し意見が。疑似科学かそうでないかを判断するにはデータ取得の正当性や解析法の正当性を見極める力が必要で、そのような力をつけるためのトレーニングの重要性については、池内先生自身も途中の章で触れている。にもかかわらず終章において教育の重要性については、疑似科学について小中学校で教えるのもよい、毅然と話せば子供にもわかる、程度にしか書かれていないのだ。でも上述の通り、途中の章では疑似科学が嘘かどうかを判断するのにサイエンスのトレーニングが必要だと書かれているわけで、「わかりやすく、毅然と話せば子どもたちにはわかる」(p183)というのは矛盾があるし、そもそもあまりにナイーブな主張ではないだろうか。

 

というわけで、17刷も版を重ねている本書なのだが、「疑似科学」の入門書としてはあまりおすすめできない、というのが、植物科学者としての私の結論。まあ読者が自分の頭で論理的に考えてくれる人なら問題ないんですけどね。