『フランケンシュタイン』を読んだ

未読だったSFの古典的名著。本屋さんをふらふらしていたときに見かけて購入。

 

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

 

言わずと知れた、人造人間のお話・・・なんだけど、私、実はこの「フランケンシュタイン」という名前が人造人間そのものの名前じゃなくて、作った博士の名前だったってこと、この本を読んで初めて知りました。しかも、物語の結構中盤にならないとこの名前が出てこないんだよね。

 

この物語、船で旅に出ている弟が姉に向けてあてた手紙の中で、旅の途中で偶然に会ったフランケンシュタイン博士の回想をしたためる(そしてフランケンシュタイン博士の回想の中にさらに人造人間の回想が含まれる)という、かなり複雑な入れ子構造になっている。そんな複雑な構造にもかかわらず、最後まで読者を引き込んで離さない文章力と構成力は、さすが古典的名著という感じ。それに加えて、人間として普遍的な苦悩が書かれていたり、スイスやイギリス・スコットランドの風景の描写が美麗で旅行記としても楽しめたり、そりゃまあ読みつがれちゃいますよね。

 

とは言え、実は私、主人公のフランケンシュタイン博士には徹頭徹尾共感できなかった・・・。自分の好奇心で後先のことを考えず人造人間を作ったはいいけれど、出来上がった人造人間があまりに醜い姿形をしていると見るやいなや逃げ出して、しかも家に帰ってきてその人造人間がどこかに姿を消したとわかったら「こんな幸運にめぐまれるとは信じられない思いでした」「わたしの宿敵は逃げてしまっていたのです。それが確認できたときは、嬉しさのあまり思わず手を叩いたほどです」(p117)って、いやお前責任って言葉知ってる???「宿敵」とか言ってるけどそもそもお前が自分で作り出したものだしこの時点では人造人間は醜い姿を晒しているだけでその他何も悪いことしてないし、世の中に生まれ出たばかりの人造人間も困惑してるだろうし、なによりそんなに驚くほど醜くて巨大な体躯を持った人造人間がふらふらさまよいでたら、他の人が迷惑を被るだろうとか考えないわけ?で、その後、フランケンシュタインが再びあらわれて、自分の家族が殺されたり、その殺人事件によって他の家族が濡れ衣を着せられて処刑されたりすると、今度は「自分は不運な人間」面して苦悩しだす。なんなのこいつ?「不運」とか、それ全部自分が招いたものだよね???

 

しかもこの人造人間、確かに姿形はこの世のものとも思えないほど醜いのだけれど、最初から心根が曲がっているわけではなく、孤独を悲しみたった一人の伴侶を求める悲しい存在なんですよ。それなのにフランケンシュタイン博士は「伴侶が欲しい」というその切なる願いをも叶えてやろうとせず、人造人間を罵倒し続ける。途中、あまりに人造人間がかわいそうで、あまりに博士に対して腹がたって、読み進めるのがつらくなったくらい。

 

最終的に博士の結婚相手が結婚式の夜に殺されてしまうわけなんだけど、それにしたって「結婚式の夜にあいつが現れる」とわかっていながら妻を一人で寝室に行かせ、自分は居間でうじうじ苦悩しているだけという無策・無能っぷりで、殺されてしまった奥さんはかわいそうだけど、まあこんな自分勝手で無能な人間だと気づけずに結婚してしまったあなたにも責任ありますよね・・・としか思えなかった。

 

フランケンシュタイン」が人造人間そのものの名前だと思っている人、私含め結構多いんじゃないかと思うのだけど(藤子不二雄先生の名作『怪物くん』の影響も大きいかも・・・)、この主人公の非人道的振る舞いを見ていると、「フランケンシュタイン=怪物」という認識はあながち間違っていなかったなと思ったのであった。とは言え、こう感じるのも私が現代の人間だからで、「姿形の醜さはこころの醜さを表している」というのが当時の価値観だったんでしょうかね・・・。