『know』を読んだ

『[映]アムリタ』から『2』へと続く一連の作品を読んで以来、すっかり野崎まどの魅力にとりつかれてしまった。

 

know (ハヤカワ文庫JA)

know (ハヤカワ文庫JA)

 

 

『2』とその前の5部作は一応このブログでは「SF」にカテゴライズしたのだけれど、改めて考えてみると「サイエンス」要素はほとんど出て来ない話だった。強いて言えば『死なない生徒殺人事件』の主人公が生物学教師だったのがほぼ唯一のサイエンスとのつながりか・・・・。一方この『know』は迷うことなくSFですね。出版も、『2』とその前の5部作シリーズがラノベを扱うメディアワークスだったのに対し、この『know』は日本人SF作家を扱うレーベル、ハヤカワ文庫JAから出版されている。

 

一方で、この『know』でも『2』でも、野崎まどが突き詰めたかったことは同じなんじゃないかと思う。私が考えるにそれは「人間は神になりうるか?」ということだ。人間は、全てを知り、そして全てを操ることができる存在=神になれるのか?なれるとすればそれはどのような形で可能なのか?『[映]アムリタ』から始まる5部作、そして『2』という一連の作品の中で、最原最早は「映画」という手段を使って人々を操り、そうすることによって神であろうとし、またさらに自分を超える存在を作ろうとする。一方で、最早はただ最初から「天才」であると記されているのみでどうしてそのような超人的存在になったのかは明かされていない。ただ最初からそうだったというだけで、どうすれば人間は神に近づけるのかという道筋については書かれていない。そして、人間が神に近づけるとすればそれはこのような道筋なのではないかという一つの答えがこの『know』なのではないかと思う。

 

時は2081年、場所は京都。2066年に脳への「電子葉」の植え付けが義務化され、その機能によって人の脳はネットワークから直接情報を抽出することが可能になった。それと同時に、アクセスできる情報量に応じて人はクラス分けされ、標準的な市民はクラス2、社会貢献度が高いとみなされるとクラス3に格上げされる。国の主要な機関に勤める人間はそのさらに上のクラス4から6の権限を許されており、主人公であり情報庁の指定職審議官である御野・連レル(おの・つれる)はクラス5のエリートだ。

 

連レルがクラス5を目指す契機となったのが、中学二年で京都大学情報学の教授、道終・常イチ(みちお・じょういち)の教えを受けたことだった。常イチは連レルとの出会いの後、共同研究先のアルコーン社から最新研究成果を盗み、そのデータを消去して失踪する。それから14年、常イチが書いたコードを見直していた連レルは、コードに隠されたメッセージに気づき、そして常イチに導かれるままに「クラス9」の少女、道終・知ル(みちお・しる)に出会う。

 

クラス9の少女、知ルは、電子葉よりも桁外れに高い処理能力を持つ「量子葉」を植え付けられており、それによって今起きていること、これから起きることを全て計算し、「知る」ことができる。その能力を使って知ルは「全知」を目指す。つまり、全ての情報を吸収しそれを分析することによって「全知」を可能にできるのでは、というのが「神」になるための道筋として野崎まどが出した一つの答えだというわけだ。

 

ところで『[映]アムリタ』から『2』へと続く一連の作品の感想で、「野崎まどの作品は、いよいよクライマックスというところで一気に読み続けることができず、いつも一旦本を閉じて一息ついてしまう」というようなことを書いた。

 

norikoinada.hatenadiary.jp

norikoinada.hatenadiary.jp

 

この『know』もやはり一気に読み続けることができず、いよいよクライマックスというところで一旦本を置いて気持ちを他に逸らさざるを得なかった。この理由についてこのブログでは「一気に読み進めてしまうといきなり現れる闇に飲み込まれそうになるから」とか「一気に読み終わってしまうのが勿体ないから」とかいう分析をしていたのだが、今回この『know』を読んで思ったのは、展開の意外性ということだ。野崎まどの小説は先が予測できない。基本的には純粋なハッピーエンドにはなりえないし、主要登場人物と言えどもいきなり死んでしまうこともありうる、読者を油断させることのない小説であることは読んでいればわかる。だから最後、どんな展開が待ち受けているのかと思うと怖くなってしまってつい本を閉じてしまう。一気に読み進めてしまうとまともに衝撃を受けてしまいそうで怖いのだ。予測不能のすごい小説を書く作家、それが野崎まどなのだ。脱帽です。